彼がバーゼル大学の教授になったのは、三十そこそこの年齢だったと思うが、古来の慣習を破って、彼はドイツ語で講義をした。中世以来、アカデミーの教授は、ゆったりしたガウンを着、赤い帽子をかぷり、金の指環をはめ、ラテン語で講義をするきまりになっていたのに、パラケルススは、薬品でよごれた灰色の仕事着に、粗末な黒いベレー帽といった服装で、学生の前に現われたのである。俄然、スキャンダルの種になり、非難攻撃が彼のまわりに集まった。
 が、パラケルススは、町中の保守的な医師や大学当局を向うにまわして、果敢な闘争をはじめた。彼を敵視する医者に対しては、偽善者呼ばわりし、自分こそ神によって定められた、医学界の王者である、と主張するのであった。大へんな自信である。あげくには、聖ヨハネ祭の日に学生を煽動して、当時の医学の最高権威書であるアヴィケンナの『医学正典』を焚火のなかに投げこみ、大いに気勢をあげた。ちょうど今日の大学紛争のようで、パラケルススは無鉄砲にもスチューデント・パワーの先頭に立って、大学当局に闘争を挑んだわけである。
 結局、彼の過激な思想や行動は、バーゼル市の保守的な学者たちに容れられず、彼は翌年、逃れるようにして諸国放浪の旅に出た。前にも述べたように、当時は農民一揆と宗教戦争の時代である。動乱のヨーロッパを彼は精力的に歩きまわり、いたるところで病人を治療し、ドイツ、イタリア、フランス、オランダ、ポルトガル、イギリス、スエーデン、ポーランドから、遠くアジアにまで足をのばした。黒海沿岸の大草原でダッタン人に捕えられ、モスコウに連れて行かれたとか、トルコの宮廷で手術を受けて、宦官《かんがん》にされてしまったとかいった、冒険小説もどきの噂もある。しかし彼自身は、「誰が何といおうとも、余はアジアにもアフリカにも渡った覚えは断じてない」と大見得をきっている。

#ls2(妖人奇人館/放浪の医者パラケルスス)

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