本書『毒薬の手帖』は、エピソードを中心とした毒の文化史のごときものである。叙述はエジプト、ギリシアの昔から現代まで、時代順に配列してある。いわば毒のモチーフを緯糸《よこいと》として織りだした、一枚のささやかな文化史的タペストリのようなものと思ってくださればよろしかろう。

すでにギリシアの昔から、毒薬は人間のあいだに劇的シチュエーションをつくり出すための、欠くべからざる要素であったとおぼしい。ギリシア悲劇のなかには、毒薬がじつにしばしば、あたかも不吉な運命の神ででもあるかのごとくに登場するのである。ソポクレスの『トラキスの女たち』に出てくるヘラクレスは、妻が彼の衣服に媚薬のつもりで塗ったヒュドラの毒のために死ぬ。エウリピデスのメデイアが毒薬使いであることは周知だろうし、ラシーヌのフェードルも、毒を嚥んで自殺するのだ。

この毒が歴史の進展とともに、いかにその神のごとき役割を変化させていったかを、私はくわしく本書のなかに描き出したつもりである。

『黒魔術の手帖』および『秘密結社の手帖』とともに三部作を形成する本書は、もと推理小説専門誌「宝石」に連載(昭和三十七年一月から十二月まで)され、のちに桃源社から単行本として刊行(昭和三十八年六月)された。また四十五年二月には「澁澤龍彦集成」第一巻にも収録された。

お断わりしておかねばならないのは、引きぬくと人間の声を発するという、あの名高い中世の毒草マンドラゴラに関する記述が、本書ではややお粗末にすぎたという点である。私はのちに「マンドラゴラについて」(「澁澤龍彦集成」第三巻「エロスの解剖」に収録されている)という一文を書いて、この不備を補った。

昭和五十八年十二月

澁澤龍彦

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