しかしこの時代、十六世紀後半にいたっても、依然として毒薬に関する魔術的信仰は残っていて、アンブロワズ・パレのごときすぐれた科学的精神の持主でも、なお悪魔の実在を完全に否定し去ることはできなかったのである。「悪魔と契約をなして己の地位を築きあげる妖術使、毒薬師、詐欺師などが存在する」と彼は書いている。
妖術使が夜宴《サバト》に出発する際に用いる悪魔膏について、詳細な毒物学的研究を残したのはヨハン・ヴァイエルであった。彼はアトロピンの作用、あのイタリア人がベラドンナと呼ぶ植物の作用について研究した結果、おそらくこれに類した薬物の作用によって、妖術使はふしぎな心理的経験を味わうのであろうと推論した。女妖術使らに性的空想が起るのも、いろいろな薬膏を皮膚または生殖器に塗布するため、毒物が吸収されるによるのであろう。
ベラドンナがアトロピンを含んだ有毒植物であり、トリカブトがアコニチンを含み感覚神経の末梢に作用して鈍麻や麻痺を起し、[[ドクニンジン>毒ニンジン]]が運動の一時的麻痺を生じることについては、改めて説明するまでもあるまいが、ヨハン・ヴァイエルは、ベラドンナを含む膏を用いた結果として「芝居、美しい庭園、饗宴、美麗な装飾や衣裳、立派な青年、国王、奉行など、すべて彼らを喜ばせ、自分も楽しいと思うものが見え、一方悪魔、大鴉、牢獄、廃虚などの呵責の種が見える。すなわち、これらが悪魔の原因となるのである。」と、妖術使のさまざまな幻視または仮性幻覚について合理的な説明を加えている。
動物性毒物の間では、相変らず[[蛇]]、[[サラマンデル>サラマンドラ]]、いもり、シビレナマズ、サソリ、海ウサギ、狂犬の鼻汁、それに、タマムシやカンタリス(斑猫)の粉末が名前を見せている。
それから当時の学者がしきりに強調しているのは、ヒキガエルの毒の特別な有害性であって、アンブロワズ・パレの著作にも、それに関するエピソオドはしばしば出てくる。
なお、この世紀に初めて登場してくる毒薬に、ニコチンがある。タバコは一五五九年、フランス王フランソワ二世がリスボンに派遣した大使ジャン・ニコによって初めてヨーロッパに紹介された。ラテン名ニコティアナなる植物の名称、およびその主要アルカロイドであるニコチンの名前は、このニコから由来している。
この植物は新大陸の不思議の一つとされ、効能いちじるしきものと想像された。昔の本草書では「ペトゥス」という名称で知られていた。[[大使ニコ>ジャン・ニコ]]は、この植物の種子を[[カトリイヌ・ド・メディチ>カトリーヌ・ド・メディチ]]に献上したと言われている。おそらくこの女王の用いた毒薬のなかには、このタバコの浸剤も含まれていたにちがいない。
#ls2(毒薬の手帖/聖バルテルミイの夜)