さて、妖術使とならんで、中世における毒物学の権威者たる名をほしいままにしていたのは、近東地方からヨーロッパの諸都市に流れこんだユダヤ人であった。たとえば、シャルル禿頭王の侍医であったセデシアスという男もユダヤ人であるが、彼は王に毒物の致死量を与えたと同時代人から非難された。

また、マホメットはシリアに旅行中ひどいマラリア熱に罹り、憔悴して死んだとされているが、じつは効目の遅い毒に当って衰弱したのだ、という説をなす者もある。十七世紀末に出た『山師マホメットの生涯』という本によると、若いユダヤ人ザイナブという者が、はたしてマホメットが本物の予言者であるかどうか験してみるために、宴会の席で、マホメットの料理の皿に毒を入れたのであった。その結果、マホメットは次第に衰弱し、ついに三年後に死んだという。

毒を使うことに長じていたユダヤ人は、また毒を予防し、これを未然に発見する術をも知っていた。アヴェロエスの弟子で当時の大学者であったマイモニデス(十二世紀)もユダヤ人であるが、彼は毒物に関する著書のなかで、解毒剤として牝鶏の糞、凝乳剤、すりつぶしたニンニク、子鴨および硝石の名をあげている。また毒蛇に咬まれた場合、エメラルドを上腹部に置けばよい、とも言っているが、これはやはり時代の迷信や魔術の反映というべきであろう。マイモニデスは二十五歳で、十字軍を惨敗せしめた回教皇帝サラディンの侍医となり、永いこと解毒剤の製造監督を命ぜられていた人である。

ユダヤ人、妖術使とともに、中世の悪魔的な階級の三位一体を形成していたのはレプラ患者である。

一三二一年の春、フィリップ五世の治下に、フランスで腸チフスが猛威をふるい、ポワトウ、アキタニア、アルトワなどの地方で多くの人命が奪われたことがあった。当時のひとびとは伝染病を悪魔の仕業と考え、ユダヤ人やレプラ患者を悪魔の友と見なしていたから、こんなに腸チフスが猖獗をきわめるのは、彼らのような社会の賤民が、方々の井戸や泉に毒を投じて歩くからだと信じて、不当に彼らを怖れていた。

医学や薬学に関する知識が十三、十四世紀に大いに普及した理由の一つは、この時代にとくにヨーロッパに伝染病が蔓延したことである、と主張する学者もいる。レプラ、麦角中毒(「聖アントニウスの火」とよばれた)およびペストは、そのなかでも最も重要なものであった。梅毒は約一世紀後にあらわれた。

レプラ患者は頭から足の先まで白布で覆い隠し、頭巾をかぶって顔を隠し、手には「乞食鈴」と呼ばれた鈴をもち、生ける屍のように、あてどもなく諸国を流浪していたそうである。ひとびとは鈴の音が聞こえると、彼らを避けるため、あわてて逃げ出すのだった。

しかし、ペストやレプラの話題は、毒薬とは直接関係がないから、この辺でやめることにしよう。

#ls2(毒薬の手帖/マンドラゴラの幻想)

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