[[サント・クロワ>ゴーダン・ド・サント・クロワ]]自身にとっても、やがて、ブランヴィリエ夫人はやり切れない負担になってきた。いつまでもこんな危険な女と関係をもっていたら、しまいには飛んでもない災難がふりかかるぞ、と思うようになった。事実、彼女の毒殺計画には彼もちゃんと入っていたのである。けれども、彼女には、二人の兄を毒殺した直後、この色男に多額の借金をしたことがあったので、その借用証書を取り返さぬうちは、おいそれと殺すわけにもいきかねた。一方、[[サント・クロワ>ゴーダン・ド・サント・クロワ]]はこの証拠品を大事に小箱のなかにしまっておいて、万一のときには役立てようと考えていた。小箱のなかには、そのほか毒薬の小瓶や、彼女からもらった恋文が三十四通も入っていた。
こんな風に、恋人同士のあいだに食うか食われるかの心理的な暗闘がつづいていたが、やがて、思いがけなく、この暗闘にけりがつくことになった。[[サント・クロワ>ゴーダン・ド・サント・クロワ]]が偶然ぽっくり死んでしまったのだ。病気のせいか、それとも[[モオベエル広場の袋小路にあった自宅>モーベエル広場の袋小路にあった彼の家]]の実験室で化学実験の最中、誤まって毒に当って死んだのか、とにかく、ブランヴィリエ夫人に殺されたのでないことだけは確かである。一六七二年七月、彼の家は封印をほどこされた。
ところが、封印を破って警官が家のなかを捜査してみると、あやしい小箱が発見された。小箱には[[サント・クロワ>ゴーダン・ド・サント・クロワ]]の筆蹟で、次のようなことを記した紙切れが張りつけてある。すなわち、
>「この小箱を手に入れた方に、余は辞を低くしてお願い申しあげる。どうかこの小箱を、[[ヌウヴ・サン・ポオル街>ヌーヴ・サン・ポール街]]に住むブランヴィリエ侯爵夫人の手に返却していただきたい。箱の中身はすべて彼女に関するものであり、彼女のみの所有に帰すべきものであって、彼女をのぞけば、他の何ぴとにも全く不用のものである。彼女が余よりも早く死んだ場合には、箱の蓋をあけずに、中身は焼却されることになっている。余は神とあらゆる神聖なものに誓って、ここに真実のみを開陳するものなれば、何ぴとも無知を理由に箱の蓋をあけることはできないであろう…」
これを読んで好奇心をそそられない人間がいるとしたら、むしろふしぎである。警官は小箱を大事にかかえて、上司の家へ駆けつけた。
さあ、侯爵夫人は気もそぞろになった。司法警察を買収しようと暗躍してみたり、担当の役人を誘惑しようと躍起になったり、いろいろ手をつくしたが、その甲斐もなく、とうとう小箱はあけられてしまった。出てきた小瓶の中身を、役人がためしに動物に嚥ませてみると、動物はころりと死んでしまった。これは砒素にちがいない。
嫌疑を受けていることを知って、夫人は用心ぶかく田舎にひっこみ、箱のなかの手紙はすべて贋物だと吹聴させたそうこうするうち、忠実な下男のラ・ショッセが、やはり[[サント・クロワ>ゴーダン・ド・サント・クロワ]]とのあいだに金銭上の賃借関係があったという理由で、逮捕された。毒殺犯人と見なされ、足枷の拷問を科されたラ・ショッセは、知っていることをすっかり告白し、その日のうちに、車裂きの刑に処されて死んだ。一六七三年三月二十四日のことである。
ロンドンに逃げていた侯爵夫人は、欠席裁判で斬首の刑を宣告された。やがて英国政府が彼女に追放令を発すると、夫人はオランダに落ちのび、次いでピカルディ、ヴァレンシエンヌ、リエージュと転々と逃げまわった。そうして、リエージュの修道院にしばらく身をひそめていたが、ついに一六七六年三月二六日、デカリエールという者の手によって捕縛された。
#ls2(毒薬の手帖/ブランヴィリエ侯爵夫人)