モンテスパン夫人の後釜としてルイ大王の寵姫となったフォンタンジュ嬢が、二十歳の若さで、子宮炎による多量の出血で死んでしまった事件も、一つの謎とされている。噂によれば、モンテスパン夫人が毒入りの牛乳を与えて殺したという。とにかく、明らかに疑念を抱いたにちがいないルイ大王が、解剖を禁じて事件を揉み消してしまったので、真相は永久に闇に葬られてしまった。

王弟妃殿下《ダム》と呼ばれたルイ王の義妹アンリエット・ダングルテエルの死も、まことに曖昧な状況に包まれていて、さまざまな臆測をひとびとの心に呼び起こしたものであった。彼女は、ルイ王の実弟で有名な同性愛者であったオルレアン公フィリップの妻となったが、柔弱な夫は稚児さん連中に取り巻かれていて、若い妻をほとんど顧みなかった。アンリエットは生来虚弱で病身であったけれども、溌剌とした魅力的な女で、ルイ王の依頼で英国とのあいだの仲立ちをつとめたりして、外交的手腕を発揮した。その直後、二十六歳の若さで奇怪な死に方をしたのである。

一六七〇年六月二十九日、彼女は持病の頭痛がひどくなり、菊萵苣《きくぢさ》の根の粉末の入った水をもらって飲んだのであるが、突然、「ああ、苦しい、もう駄目だわ」と言って倒れてしまった。有名な女流作家ラファイエット夫人の証言によると、彼女は顔面を真赤にしたかと思うと、次にはたちまち蒼黒くなってしまったので、周囲のひとたちすべてが愕然としたのであった。彼女はなおも叫びつづけ、もう立っていられないから運んで行って、と苦しげに訴えた。…

下手人はついに分からずじまいであったが、大方の噂では、彼女の夫の気に入りの稚児であったロレエヌ騎士と、その友達のエフィア侯爵とが気脈を合わせて、彼女の茶碗に毒を投入したものとされた。複雑な嫉妬の感情によるものである。砒素とか、アンチモンとか、昇汞とかでは、これほど急激な死を惹起することはできないが、当時ロオマに遠ざけられていたロレエヌ騎士が、イタリアの強力な毒薬をエフィア侯爵に送ったのかもしれなかった。―サン・シモンは以上のごとき見解をとっている。

彼女の屍体は型のごとく解剖に付されることになり、英国代理の立合いのもとに行われた。けれども十五人の医者は、毒殺の形跡は認められない、という一点で意見が一致したにすぎず、死因についてはそれぞれ意見がまちまちだった。ある医者はコレラだと主張した。たしかにコレラによる死は、ある種の毒による死と酷似しており、その診断はきわめて困難でもあろう。しかし当時、こんな伝染病がパリを中心に流行していたというような話は、誰も聞いたことがないのだった。

ルイ十四世の時代はロオマのアウグストゥス帝の時代とよく似ていた、という説をなす学者もある。妖術使や呪術師や占者や、媚薬や堕胎剤を売る香具師や、いかさま師や、夢判断をする魔術師などが、悪徳の都パリをめざして雲のごとく集まったからである。フランス各地の田舎の修道院でも、ルーヴィエ事件、ルーダン事件をはじめとする集団的な悪魔憑き事件が頻々として起り、修道士が悪魔に魂を捧げて媚薬や毒薬を製造するといった例も、少なくなかった。

女妖術使の家には、夕暮か早朝、「貧乏人は歩いて、金持ちの婦人は四輪馬車か轎《かご》に乗って行く。かなり手前で馬車や轎をおり、仮面をつけたり、帽子の垂れを低く下ろして、顔を見られぬようにした。かねての合図で、扉がそっと開く。訪問者は少し待たされてから、女占師の前に案内された。奇怪な場面が展開された。大抵の客は身慄いした。…相手の女の覚悟ができている場合には、女妖術使はくどくど言う必要はない。あなたの御主人を殺してあげるから、御主人のシャツを持ってきなさいと言い渡す((文字が化けるため余分の空白が入れてある))。このシャツを砒素入りの石鹸で洗って、返してやる。…別の方法もある。お客に水を渡すのだ。この水は一見無害のようだし、澄んでもいるし、匂もない。この水を食物や飲薬や灌腸剤の中に入れなさいと言う。実は、この水には砒素が溶かしてある。長いあいだに、いつの間にか夫が死んで行く程度の分量である。」(F・ラヴェッソン『バスチイユの古文書』一八七〇)

#ls2(毒薬の手帖/ふしぎな解毒剤)

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