(9)時計師ペルの事件
ダンヴァル事件の裁判には少なからず疑問の点があり、その判決には情状酌量の余地もあるように思われるのであるが、これから紹介する時計師ペルの場合は、明らかに官能的な欲望と金銭上の欲望とがむき出しになった、怖るべき殺人鬼の犯行であって、弁護の余地さえほとんどないのである。
法廷にあらわれたペルは、骸骨のように痩せ、髪の毛が薄くなり、髯ぼうぼうのすがたで、裁判官も思わずぎょっとするほどの物凄い様子だったと言われる。その上、彼は一種の誇大妄想狂で、みずから毒物学の権威をもって任じ、法廷で滔々と弁じ立てた。
ペルに殺された犠牲者たちの遺骸を鑑定した法医学のブルアルデル教授は、法廷でペルに会う前に、じつは彼のことをよく知っていた。いわば顔見知りの間柄だった。教授が大学で毒物学の講義をしていた頃、ペルはしばしばその教室にすがたをあらわし、熱心に教授の講義を聴いていたのである。
「法廷でペルは起訴状と私の鑑定書に、いろいろと文句をつけた」と教授自身が語っている、「自分にとって有利になるような、いろんな論拠をもち出しては、私の意見にいちいち反対を唱えるのだが、それらの論拠はすべて、かつて私自身が教室で彼に教えてやったものだった」と。
判事席のヒナ壇を前にして、旧知の法医学教授とその生徒(じつは犯人!)が、互いの蘊蓄を傾けつくし、虚々実々の毒物学論争を繰りひろげる、―これは、なかなか興味津々たる眺めにちがいないと思うのだが、いかがなものであろうか?
たしかに、ペルのやり方は正々堂々たる勝負のやり方だった、と言えるかもしれない。が、彼の風貌や陳述の態度には、陪審員たちの同情を惹くようなものが何ひとつとしてなかった。かつて、[[サン・タンヌ>サン・タントワヌ街]]監獄にぶちこまれたこともある前科者の彼には、気違いじみた見栄っぱりのところがあって、職業を転々として変えていた。時計師、劇場経営者、教師、オルガン奏者、もぐり医者などといった経歴を考え合わせると、彼が相当のインテリだったことは明らかである。すでに母親と二人の情婦を死なせていたが、これらの死因も、かなり曖昧なものであった。
その後ふたたび時計師の職にもどって、ペルは結婚しているが、結婚後わずか二ヶ月にして、その妻を胃腸炎で失った。この胃腸炎も非常に怪しいものだ。そして、すぐまた彼は新しい妻を迎え、彼女の持参金に手をつけて、当時パリの警視庁が予算の不足を補うために売り出していた毒物を、大量に購入しているのである。
モントルイユにあった彼の別宅には、これらの毒物が山と積まれていたそうである。おそらくペルは、びっくり仰天した妻や義母を前にして、フラスコや小壜を打ち振りながら毒薬の実験をすることに、悪魔的な歓びを感じていたのでもあろう。
この怖ろしい時計師の最後の犠牲者は、しかし、二度目の妻ではなく、彼にぞっこん熱をあげていた一人の情婦であった。彼女は激しい中毒を起して十日後に死んだのであるが、その間ただ一人の医師にも彼女は診てもらえなかった。妻や義母は、彼が情婦を家に引っぱりこんだためか、それとも彼の毒薬実験に怖れをなしたためか、すでにモントルイユの家を出て別の場所へ移り住んでいたようである。
発覚の動機になったのは、ぶざまな屍体の処理方法であった。放置された屍体の腐る臭いと、骨の焼け焦げる臭いとに我慢し切れなくなった近所の連中が、どうも怪しいと騒ぎ出したのである。おまけに七月いっぱい、彼の家の古い料理用ストーブがぼうぼう激しい音を出して燃えつづけているのが、家の外までよく聞えた!
こうして彼は逮捕され、前述のごとく裁判にかけられて断罪されたのであるが、彼が一個のマニアックな狂人であることは誰の目にも明らかだったので、死刑にはならず、終身懲役になった。
#ls2(毒薬の手帖/さまざまな毒殺事件)