十六世紀スコットランドの血なまぐさい宗教動乱のさなかに、その情熱的な半生を燃やしつくした悲劇の女王メアリ・スチュアートこそ、わたしの最も傾慕する歴史上の女性のひとりである。
現代イタリアの作曲家ダルラピッコラの『囚われ人の歌』は、このメアリ・スチュアートが晩年、女王でありながら死刑を宣告されて、城中に幽閉されていた当時の状況を曲にしたものであるが、―その悲壮な鐘の音を伴なう祈りの女性合唱《コーラス》を聞いていると、わたしには、彼女の数奇をきわめた前半生の劇的シーンが次々に思い出されて、潮のようなクレシェンドとともに、胸がつまってくるのを如何ともしがたい。
いったい、この極端にロマンティックな気質の女性、[[メアリ>メアリ・スチュアート]]を「悪女」と呼んでよいものかどうかは、すこぶる疑問であろう。ある者は彼女を殉教者として賛美し、ある者は彼女を夫殺しの売女として非難する。多くの歴史家や詩人に、これほどいろいろな形で描かれた女性もめずらしい。四十五歳で首を斬られた女王の生涯の前半は、しかし、まことに輝かしく、地上最高の栄誉にみちみちていた。生後六日、父ジェームズ五世の死とともに、早くも彼女はスコットランドの女王になった。六歳で[[フランス皇太子>フランソワ二世]]と婚約し、ドーヴァー海峡を渡り、世界でも最も繊細優美なフランス・ルネッサンスの文化の光を思うさま身に浴びた。十七歳でフランス王妃となり、パリ中の市民の歓呼と祝福を受けつつ、二つ歳下の花婿とともに、豪華な花嫁衣装につつまれてノートルダム寺院の式典に赴いた。
ヨーロッパの北の果ての、貧しい陰鬱な国スコットランドから、中世以来の洗練された文化国家フランスに連れてこられ、そこの宮廷で養育されたメアリ・スチュアートは、すでに少女時代から、ラテン語の読み書き、詩作、音楽、ダンスなどに非凡な才能を示し、フランス宮廷の花とうたわれた。生まれつき美貌で、優雅で、服装の趣味のよさ、態度の品のよさには定評があり、ロンサールやデュ・ベレなどの詩人たちも、熱をこめて彼女を賛美する詩句を書きならべた。「十五歳にして彼女の美は、晴れわたった昼の光のような輝きを見せはじめた」と年代記作者のブラントームが書いている。
芸術的な天分ばかりでなく、また彼女はスポーツや、あらゆる騎士的技芸にも通じ、男のように大胆に馬を乗りこなし、荒々しい狩猟を楽しんだ。彼女が早朝、高くあげた拳に鷹をとまらせ、きらびやかな騎馬すがたで、市民たちの挨拶に親しげに答えながら馬を進めていくとき、ひとびとは、この勇ましい王妃を誇らしげに眺めるのであった。
この颯爽たる王妃とは反対に、夫のフランソワ二世は病弱で、ヴァロワ王家の毒された血のために、はじめから早死を運命づけられていた。一五六〇年に夫が死ぬと、十八歳で未亡人になった[[メアリ>メアリ・スチュアート]]は、悲しい心をいだいて生まれ故郷のスコットランドに帰らなければならなかった。
#ls2(世界悪女物語/メアリ・スチュアート)