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物語の背景になるのは、小カルパチア山脈に囲まれた、十六世紀末のハンガリアである。西ヨーロッパの文明から取り残されたこの地方は、[[ルネッサンス>ルネサンス]]の曙光を迎えても、まだ中世の暗い夜の雰囲気が消えずに残っていた。森林の多い地方で、狼や狐や兎が出没し、森のなかでは妖術使や魔女が毒草を摘んでいた。風が樅《もみ》の林を抜けて吹きわたると、無気味な狼の咆哮が村々まで聞えた。吸血鬼《ヴァンパイア》伝説が起ったのも、この東欧の陰鬱な風土からである。
物語の主人公[[エルゼベエト>エルゼベエト・バートリ]]は、一五六〇年、ハンガリアの名門バートリ家に生まれた。バートリ家は、ハプスブルグ家と関係の深い古い貴族の家柄で、代々トランシルヴァニア公国の王をつとめ、[[エルゼベエト>エルゼベエト・バートリ]]の母方の叔父はポーランド王をも兼任していた。輝かしい名門中の名門である。
[[エルゼベエトの父親]]は軍人で、彼女が十歳のとき死んだ。母アンナは教養の高い婦人で、当時の女性としては珍らしく、ラテン語で聖書を読むこともできた。
少女時代から、すでに[[エルゼベエト>エルゼベエト・バートリ]]の結婚相手はきまっていて、十一歳のとき、未来の姑となるべき婦人ウルスラ・ナダスディの手に預けられた。姑が息子の嫁を若いうちから教育しておくのが、いわば当時の習慣だったらしい。ナダスディ家もまた、九百年以上つづいた名誉ある軍人の家柄で、息子のフェレンツは[[エルゼベエト>エルゼベエト・バートリ]]より五歳年長だったが、すでにトルコとの戦いにに出陣していた。
姑の監督ぶりは非常にきびしく、口やかましく、わがままな少女は一目見たときから、彼女が大嫌いになってしまった。黙しがちの少女は、田舎の古い城のなかで、孤独な、陰気な生活を送った。嫁ぎ先の家庭の空気にも馴染めなかった。[[エルゼベエト>エルゼベエト・バートリ]]が自分の生活に漠然たる退屈と不如意を感じたのは、このときが最初である。それから死ぬまで、この苛立たしい退屈から、ついに彼女は解放されなかった。
蒼白い顔をした、気むずかしい、大きな黒い瞳の少女が、次第に美しく成長してゆくのを、将来の夫たるフェレンツ・ナダスディは、不安な驚きの目をもって眺めていた。が、彼は軍隊生活が忙しく、結婚後も、家庭を留守にすることが多かった。
[[エルゼベエト>エルゼベエト・バートリ]]には、ふしぎな冷たい美しさがあって、その大きな黒い眼には、見る者を何がなし不安にさせるようなものがあった。ごく若いころから、嘲笑的で、傲慢で、怒りっぽく、男に愛されるよりも男を畏怖せしめるたぐいの、驕慢な女王然たる気質があった。当時の肖像画を見ると、彼女は頭の毛をひっつめて帽子でかくし、大きなレース飾りのついた襟をぴんと張り、手首のところで締まった白いリンネルの袖をふくらませ、黒ビロードの胴着《ジレ》の胸から腰にかけて、真珠をびっしり飾りつけ、ゆったりしたスカートの上に、白いエプロンをかけている。可愛らしいハンガリア風の貴婦人の装いであるが、―表情はむしろ固く、神秘的で、とくにその眼がひどく印象的である。何を見ているのか、彼女の視線は容易に捉えがたい。
結婚式は一五七五年五月、ヴァランノオの城で華やかに行われた。時に彼女は十五歳。プラーグの皇帝マクシミリアン二世から、祝文と贈物がとどけられた。花婿のフェレンツは、しかし、初夜の床で悪魔の花嫁を抱いたことに気がつかなかった。まだ彼女の怖ろしい悪徳は、その魂の深層部にかくれていたからである。
#ls2(世界悪女物語/エルゼベエト・バートリ)