専制君主はだれでもそうであるが、アグリッピナもまた、自分の地位がいつ脅やかされるかと、たえず不安に苦しめられていた。皇帝にはメッサリーナとのあいだに、ブリタニクスという実の息子がある。アグリッピナの息子ネロは、皇帝にとっては赤の他人の子だ。ここに、彼女の将来に対する不安の芽の一切が胚胎していた。

ネロに対する母親アグリッピナの感情は、生涯の各時期に刻々と変化し、まことに掴みどころのないものである。要するに彼女の愛情のそそぎ方は、あくまでも自分本位だったというしかない。-生まれ落ちてすぐ、赤ん坊のネロはドミティア・レピダという叔母の手もとに預けられた。長ずるにおよんで、ネロの叔母に対する親しみの情は恋愛に変ってゆく。母親アグリッピナはこれを見て、怖ろしい嫉妬の焔を燃やす。しかしネロにとっては、生みの親たる冷淡なアグリッピナよりも、育ての親たるレピダの方に親しみをおぼえるのは当然だったろう。

一説によると、この叔母のレピダはひどく淫蕩的な女性で、幼いネロに愛撫の手ほどき
をしたのも彼女だという。ともあれ、ネロの初恋の相手が四十近くも歳の違う、このレピ
ダという女性であったことは特筆すべきであろう。

自分の息子が他の女に支配されるのを、アグリッピナは好まない。やがて彼女はレピダを殺し、息子を自分の手もとに引き寄せる。そしてネロを皇帝の娘オクタヴィアと婚約させ、皇帝の養子とすることによって、彼の将来の地位を固めようとする。

ここまで着々と準備を進めてから、アグリッピナはようやく犯罪の方向に一歩を踏み出すのである。除かねばならない当面の相手は、暗愚な夫クラウディウスであった。

史家ディオン・カシウスによると、すでにこのころ、皇帝は、アグリッピナと結婚しネロを養子としたことを大いに悔やんでいたらしい。妻をしりぞけ、実子のブリタニクスを後継者に指名する用意もあったという。アグリッピナが犯罪を急いだのは、かような情勢に左右されたところもあったにちがいない。

当時ローマに、毒薬使いとして評判の高い[[ガリア>ガリア地方]]生まれのロクスタという女がいた。ふだんは親衛隊長の管理する牢につながれていて、なにか政治的陰謀の計画があるごとに、牢から引き出され、相談をうける。-アグリッピナも、このロクスタの指示にしたがって毒薬を用いることに意を決した。

紀元五十四年十月十二日、皇帝の誕生日を祝う宴会が宮中で催された。食卓には、クラウディウスの大好物であるキノコ料理が並んでいる。アグリッピナも食べたが、彼女はべつに何ともなかった。ところが、皇帝が皿のまんなかの大きなキノコを口にすると、やがて宴会の果てるころ、猛烈な吐き気が襲いはじめた。しかし、彼はあまりにも多く飲んだり食ったりしていたので、毒がなかなか効き目をあらわさない。アグリッピナはいらいらし、心配になり、侍医のクセノフォンに目顔で合図を送った。

クセノフォンがすすみ出て、ぐったりした皇帝を抱き起し、吐かせてやるという口実で、皇帝の咽喉の奥に一本の鳥の羽根をぐいと突っこんだ。この羽根に、速効性の毒が滲みこませてあったのである。あわれにも皇帝は、たちまち手脚をこわばらせ、頭をのけぞらせ、目をひきつらせて死んでいった。

かくてネロは母親の期待通り、皇帝の座につくことができた。

#ls2(世界悪女物語/アグリッピナ)

-http://nekhet.ddo.jp/people/roman/julius-claudius.html

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