この『回想録』のなかには、まことに意味ふかい言葉の断片が発見される。「ああ、もしわたしが両親に愛されていたら!」とか、「子供は、愛されることより以上の望みをもたないものだ」とかの言葉がそれだ。この極悪人の心には、人一倍、愛を求める気持が激しかったのだろうと推測される。両親は冷淡だったが、幼い彼を育てた乳母はやさしい女だったらしく、彼が生涯に契った情婦は、すべて乳母に似た女だったともいう。
 彼の詩を引用する余裕がないのは残念であるが、「死刑囚の夢」という詩の第一行目は、「夢みる時は幸福なるかな」という言葉で始まっている。じつに甘美な、哀切な詩だ。
 死刑執行の日は、一八三六年一月九日であった。酷寒の朝、暗いうちから起されて、共犯者のアヴリルとともに、荷車で死刑場に運ばれて行くあいだ、ラスネールは、生涯の最後の冗談をとばした。「墓場の土は冷たいだろうな!」と。アヴリルもそれに答えて、「毛皮を着せて埋めてくれって、頼んでみろよ」と言った。
 死刑場はまだ暗かった。最初にアヴリルの首が斬り落されると、今度はラスネールの番であった。ギロチンの刃の下に、彼はすすんで自分の首を差し出した。そのとき、ふしぎなことに、ギロチンの刃は中途で止まって、落ちてこなかった。五度失敗し、六度目にようやく彼の首は断ち切られたという。こんな故障は、めったにないのである。


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Last-modified: 2005-12-15 (木) 19:51:03