裁判は一八三五年十一月十二日から始まった。毎回、傍聴人が廊下まであふれ出し、ラスネールが被告席につくと、裁判長は騒ぎを静めるのに一苦労した。被告の沈着ぶりたるや、驚くべきものがあった。しかし、それよりもっと驚くべきは、思いもかけない被告の陳述であった。傍聴人たちは、当然のことながち、被告が自分の行為を弁明するものと信じ、それを期待していた。しかるに、その期待は完全に裏切られたのである。
 「わたしの共犯者は、わたし自身の犯罪に何の関係もありません」と彼はまず断言した、「わたしは自分の責任において、ひとりですべてを計画し、決行したのであります。したがって、わたしだけを問題にするならば、殺した相手は二人どころではなく、十人、いや、百人にも達するでしょう。それでも下手な戦争の、下手な指揮官はどにも殺してはおりません。残念ながら、わたしの手下は無能でした。わたしの戦争は、蟻の喧嘩みたいなものでした。お恥ずかしい次第です。しかしながら、わたしの弁護士は、わたしの立場をあまりにも過小評価しているような気がいたします。わたしだって、勲章をもらうくらいの資格は十分あるつもりなので……」
 法廷は静まりかえり、傍聴人たちは茫然自失してしまった。この極悪人の、社会と道徳に対する最後の挑戦に、すべての者が気をのまれ、声もあげられないのだった。ラスネールは落着きはらった、皮肉な、勝ち誇った調子で最後まで続けた。「わたしは人類を憎悪し、すべての同時代人に嫌悪をおぼえます」とも言った。「社会に対する復讐を、片時も忘れたことはありません」とも言った。
 これまでロマンチックな英雄崇拝から、ラスネールを賛美していた新聞の論調は、この日を境として、がらりと変った。冷酷な獣、ダンディの仮面をぬいだ悪魔、人類の敵といった表現が使われ出した。面会人の数は激減した。名高い骨相学者が、まだ生きているうちから彼のデス・マスクを取りにきて、研究資料にしようとした。一方、ラスネール本人は、世論を挙げての非難もどこ吹く風と、監獄の一室で、相変らず詩を書いたり、『回想録』を執筆したりするのに余念がなかった。裁判の判決は、もちろん死刑であった。


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Last-modified: 2005-12-15 (木) 19:50:36