一八〇〇年、リヨンの近くのフランシュヴィルで生まれた少年ラスネールは、どういうわけか、成り上り老の商人の父から疎んぜられ、里子にやられたという。両親は兄や姉ばかり可愛がっていた。この少年時代の不幸の経験が、後年、彼をして社会や人類や道徳や、ありとあらゆるものを憎悪させる動機になった。これらのことは、ラスネールが死刑になるまで款中で書き綴った、有名な彼の『回想録』に事細かに述べられている。
中学校でも、彼は教師たちのもてあまし者だったらしい。それでも読書好きで、早くからヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想に親しみ、また、こっそり猥本を手に入れたところを見つかって、放校になったりしている。当時出たばかりのサド侯爵の小説なんかも、きっと読んでいたにちがいない。
青年時代に、ラスネールは偽名を使って軍隊に入り、やがて軍隊を脱走してパリに出、やくざ老仲間と交際をもつようになった。すでにイタリアのヴェロナで殺人を犯したこともあり、たびたび留置所入りをしたこともある彼は、頭もよいし、度胸も十分だったから、たちまちやくざ仲間の親分格になり、マルセル・カルネの映画にあるように、代書屋の看板を出しながらひそかに強盗や窃盗の荒かせぎをした。夜、詩を作る楽しみだけはやめられず、友達の一作家の手引きで、文壇や社交界に顔を出すようにもなった。
昼間はパリの場末のサン・マルク街で、小汚ない服装をして、寄席芸人や香具師や淫売婦や乞食とつき合っていたラスネールが、夜になると、りゅうとした服装に身をつつみ、髪の毛を波打たせ、細い口髭をぴんと立たせ、愛用のステッキを片手にして、貴婦人たちの群がる社交界や文壇や、さては豪華な賭博場へと出かけて行くのであった。昼と夜の二重生活を、彼はみごとに使い分けていた。