犯罪や推理小説や考古学やヒッピー風俗や、さらには現代の高度大衆消費時代と呼ばれる社会状況下に突発するもろもろの事件に、少しでも関心を寄せていらっしゃる方ならば、いかにも時代離れしているように見えて、そのくせ何がなし現代という閉塞的な時代のある面を象徴しているように感じられる、本年(一九六九年)一月十日の朝日新聞夕刊に報道された、つぎのようなセンセーショナルな見出しの新聞記事をおばえておられるにちがいない。すなわち、その見出しとは、「古代石器で殺される 人類学専攻の女子学生」というので つぎに、朝日新聞の記事の初めの方を少しばかり引用してみよう。
 「ハーパード大学で人類学を専攻中の二十三歳の女子学生がアパートで半裸のまま、なぐり殺され、学界に衝撃をあたえている。七日、発見された彼女の死体をこれまで警察が調べたところでは、凶器は古代の石器、致命傷は、これによる頭蓋骨に達する打撲傷で、殺害後、犯人は古代ペルシアの埋葬にならって、彼女の顔、身体に真赤な粉をまきちらしていたという。」
 被害者はジェーン・ブリトンといい、ハーパード大学の姉妹校で、アメリカで最も有名な女子大の一つ、ラドクリフ女子大副学長の娘であった。彼女はラドクリフ女子大を一九六七年に卒業後、オリエント考古学を専攻するため、ハーパード大学に再入学、今年は大学院の二年生であった。昨年夏には十人の同級生とともに、イラン南東部にある古代村落の遺跡発掘隊に参加、将来は人類学者たらんとする希望をいだいていたようである。
 ハーパード大学といえば、名門中の名門であるし、おまけに被害者は女子大学副学長の娘、しかも若くて美人で秀才で、とび抜けて頭がよかったというし、しかも殺人方法が殺人方法だから、この事件が全アメリカにセンセーションを捲き起したのも無理はなかったろう。私が新聞を見て、まず感じたのも、「ははあ、これはいかにもアメリカらしい、ソフィスティケーテッドな犯罪であるな」ということだった。
 ブリトン嬢は、ハーバード大学キャンパスに近い地下鉄とトロリーカーの車庫から路地一つ隔てた、ケンブリッジ市内の大学通り六番地の、三部屋つづきのアパートに一人で住んでいたが、七日火曜日午後零時四十分、試験に出席してこないのを不思議に思ったボーイフレンドが彼女をたずね、初めてその死を発見したという。警察の発表によれば、彼女は血まみれのベッドの上で、はだけた青いナイトガウンを腰のまわりにくしやくしやにして、頭を毛布と毛皮コート、シーツの下に埋めたまま、うつぶせになって殺されていた。発見当時、死後約十時間ないし十二時間経過していた。
 何より奇怪なのは、彼女の顔、彼女の身体、それに本の散乱する周囲の床の上に、レッド・オーカー(代赭石)と呼ばれる、ヨード系酸化物の粉末がいっばい真赤にふりかけられていたことだ。 凶器は発見されていないが、かつて考古学発掘調査の記念としてブリトン嬢に贈られた、古代ペルシアの鋭利な石器か、あるいは手斧のようなものではないかと推測されており、死因は、その凶器で頭部を数回なぐられて生じたところの、頭蓋骨の大裂傷ということである。
 なお、ブリトン嬢が殺されたアパートは、一九六三年、有名な″ボストンの絞殺魔″による十三人の犠牲者中、十番目の犠牲者となって殺されたボストン大学の二十三歳の大学院生、ビヴァリー・サマンズ嬢が同じく住んでいたという、いわくつきのアパートである。すすけた煉瓦造りの、四階建のビルである。
 殺人現場の状況をもう少し述べれば、外部から押し入った形跡はなく、盗まれたものもなく、アパート内で争った形跡もなく、被害者は頭をなぐられた際、加害者と向き合う位置にベッドに腰かけていたらしい。入口のドアには鍵がかかっていなかったが、これはブリトン嬢が自分の冷蔵庫を、隣室に住む同じ人類学専攻の大学院生、ドナルド・ミッチェル夫妻と共同で使っていたためである。
 最初は性犯罪だろうと思った人も多かったにちがいないが、検死解剖の結果、暴行は受けていないということが分った。(ただし、その後に発見されたブリトン嬢の日記から、彼女が最近、闇の堕胎手術を受けているという事実が判明している。)
 さて、ここで、赤い粉の秘密について考察してみよう。


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Last-modified: 2010-09-20 (月) 23:21:21