さて、このように、毒による殺人の方法が犯罪学的に洗練され、毒殺事件が単に王侯や貴族の周辺で行われるばかりでなく、庶民のあいだでも頻々と発生するようになったのは、何といっても十九世紀から以後のことであった。砒素や燐が容易に庶民の手に入るようになったのは、十九世紀中葉以降、つまり、産業革命や工業の発達と関係があった。 すでに毒草園などといった中葉以降、つまり、産業革命や工業の発達と関係があった。 すでに毒草園などといった中世的なロマンティシズムは影をひそめ、犯罪が近代科学と結びつき、大手をふって産業都市のなかを歩きまわりはじめていたのである。 次に掲げる統計は、ラカッサーニュ博士の作製した、フランスにおける毒殺事件の軒数を年度別に示すものである。(『法医学概論』パリ、一九〇六)
これを見ると、一八四〇年から一八五五年あたりまでを頂点として、毒殺事件は徐々に減少して行く傾向にあることが分る。一八五〇年といえば、ちょうど有毒の黄燐マッチが使用され出した頃であることを念頭に置いていただきたい。プロレタリアのあいだでは、いわゆる「マッチのスープ」が最も手軽な毒殺方法であった。 毒薬の分類も、以前のように単純な動物、植物、鉱物といった三種類の分け方では間に合わなくなってきた。そんな中世記的な薬剤師の観念では、とても複雑な化学式や構造式を律するわけにはいかない。十七世紀の薬剤師グラゼルのあとを承けて、シェーレ、ヘイルズ、ラヴォワジェなとどいった化学者が、薬学の分野を長足に進歩させたので、毒薬の種類もきわめて複雑多岐になってきたのである。 次に示すのは、アンブロワズ・タルデュイの『毒殺に関する法医学的・臨床医学的研究』(パリ、一八七五)のなかに提示された、新らしい時代に即応した毒薬の分類法である。
以上のごとく五種類に分けられるが、むろん毒物学者によっては、別の分類法を採用している人もある。 |