毒草園というものの頽廃的な甘美なイメージを、作品の主題として利用した小説が西洋にはいくつかある。ナサニエル・ホーソンの『ラパチーニの娘』がそれだ。 すばらしい豪華な毒草の庭園を造営しているラパチーニという老植物学者が、美しい自分の娘を子供の頃から毒素によって養育しているので、彼女に恋する若い学生もまた、禁断の庭園を娘と一緒に散歩したりしているうちに、全身毒素に染まり、昆虫や蜘蛛にふうっと息を吹きかけただけで、それらを一ぺんに殺してしまうほどの呪われた肉体の持主になってしまう。物語の最後は、恋人に面罵された娘が自分の運命に絶望して、ベンヴェヌート・チェルリーニの製造になるという解毒剤を嚥んで、死んでしまう。 つまり、「ラパチーニの手腕が彼女の地上的な肉体をあまりにも根本的に変化させていたがために、彼女にとっては毒が生命であり、したがって解毒剤は死であった」のだ。 これと非常によく似た筋の小説に、ロシアのデカダン作家ソログーブの書いた『毒の園』がある。黒ずくめの服装をした怪奇な老植物学者や、その娘に恋をする純情な学生が登場してくるところまで、前者とそっくり同じシチュエーションである。 娘はやはり幼時から毒の園に育って、全身毒薬に染まっている。ある晩、若い二人は花園のなかで密会する。そのとき娘は自分の肉体の秘密を明かして、早くこの園から去ってくれと言うが、恋する青年は承知しない。そして美しい月夜、さまざまな香気高い花がいっぱい咲き匂っている毒の園のなかで、二人は接吻しながら、そのまま自然に眠るように、月光の魅力と花園の毒気とに魅せられたかのごとく死んで行くのである。 マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』にも、魔法使いの女デュランが造営している奇妙な有毒植物園のエピソオドが出てくる。ジュリエットとクレアウィルは、ここで緑金蟇(ミドリヒキガエル)の有毒な粉末を買う。 毒を少量ずつ嚥んで、次第に人間の身体を免疫性体質につくり変えて行くというアイディアは、ロオマの歴史家コルネリウス・ネポスの語っているミトリダテス王の故事以来、デュマの『モンテ・クリスト伯』や、現代の推理小説(たとえばドロシイ・セイヤーズの『毒』)にいたるまで、非常に多く利用されている。 モンテ・クリスト伯爵は、義理の娘ヴァランティーヌを亡き者にしようと企んでいる検事総長ヴィルフォール夫人に向って、次のように、毒物学の一くさりを講義する。
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