古代ペルガモン最後の帝王アッタロス三世(前一三三年歿)やミトリダテス六世(前一六三年歿)などが、王宮の庭に広大な毒草園を造営して、大勢の学者たちを集め、日夜真剣に毒物の研究にふけっていたというエピソードには、私たちのロマンティックな犯罪学的空想力を大いに剌戟するものがあるであろう。

むろん、これらの帝王たち自身にしてみれば、ロマンティックどころの騒ぎではなく、暗殺に対する恐怖心から、いわば保身のために、毒物や解毒剤の研究に力を注いでいたわけなので、王宮内では、ずいぶんむごたらしい野蛮な実験なども行われたに相違ないのであるが、―二十世紀の私たちの目から見れば、彼らの所業も、なにか子供っぽい、ほほえましい、無邪気な王さまの慰みごとのようにしか見えないのである。

小アジア西北部のペルガモンは、この地を都とした富裕なアッタロス王家が学問や美術を奨励したので、はヘレニズム文化の一大中心地として栄えたが、最後のアッタロス三世も、彫刻を趣味として一向に政治を顧みなかったそうである。得意の毒薬で近親者を毒殺して王位についたが、やがて籠居したのは、良心の呵責に堪えかねてのことだと言われる。彼が日射病で死んだという伝説があるのも面白い。いかにも庭園や植物の好きな王さまらしいではないか。


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Last-modified: 2005-02-26 (土) 13:04:03