十七世紀の薬剤師などというものは、全体的に見れば、まことに程度の低いものであるが、そのなかに幾人かの卓越した人がいないわけではなかった。フーケ夫人の庇護を受けたスイス人のクリストフ・グラゼルなどがそれで、彼はパリの植物園で化学を講じながら、ヨーロッパ中の評判になった『化学概論』(一六六八)を出版した。初めて硝酸銀を棒状につくり、腐蝕銀剤の名をつけて売り出したのも彼である。

気の毒なことに、グラゼルは例のブランヴィリエ侯爵夫人事件に連座して、汚名を蒙り、故国を去った。ブランヴィリエ夫人は裁判所で、自分は何度もグラゼルから毒物を買い、彼から毒薬調合の方法を教えてもらったことがあると証言したのである。

鶏冠石雄黄こそ毒薬の父である、と言っていたのはラ・ヴォワザンであるが、たしかに砒素はこの時代に、一躍毒物界の王座にのしあがった観がある。これらの砒素の硫化物は、主としてドイツザクセン地方から産した。

ひそかに灌腸器に仕込む毒薬には、昇汞水も用いられ、犯罪者のあいだで、一時かなりの流行を見たが、砒素の溶液の使用度に比べれば問題ではなかった。ブランヴィリエ夫人もプーライヨン夫人も、これを用いて成功している。

とくにプーライヨン夫人の場合は、裁判所で告白するまで、完全に世間の目をくらまし通してきたのだから大したものである。濃厚な砒素を滲ませたシャツによって、彼女の夫の身体の一部は、下疳のような潰瘍に侵され、ひどい炎症を起こしていたのであるが、診察した医者はいずれも、ただ梅毒性の腫物だろうと診断を下すにとどまった。もし夫が疑念を抱かなかったら、医者は梅毒の治療のためと称して、患者に水銀か何かを飲ませ、みすみす彼を殺してしまったかもしれないのである。


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Last-modified: 2005-02-26 (土) 13:04:05