ボルジア家の暴政に怨みをいだき、逆に彼らを毒殺してやろうと図った人間もたくさんいた。マリーニという農夫は、ヴァチカン宮の近くの井戸に毒を投入した。また、ある音楽家と法王の侍臣とは、共謀して毒薬仕込みの手紙をアレクサンデル六世に送った。

けれども陰謀はすべて発覚し、ボルジア家の悪行はいよいよ激しくなった。

ところが、ふとした失策から、法王チェザーレは窮地におちいり、父のボルジアだけは、ついにそのまま不帰の客となってしまうのである。事の次第を述べてみると−

一五〇三年八月五日、法王チェザーレとは、広大な土地とすばらしい葡萄園をもっていた枢機官アドリアノ・ダ・コルネトという者に招かれて、彼の邸に食事をしに行った。あたかも夏の真盛りであったから、咽喉が乾いた二人は、邸に着くとすぐ、冷たい水をもらって飲んだのである。そのとき、どうしたわけか召使いが誤って、彼らのコップに毒薬を入れてしまった。その毒薬は、もちろん彼らが枢機官に飲ませようとして、ひそかに用意しておいたものだった。

しかし、以上は歴史家グイッチャルディーニ(『イタリア史』の著者)の臆測であって、もしかしたら、逆に枢機官の方がボルジア父子をここで一挙に滅ぼしてやろうと考えたのかもしれない。そんな説を述べる歴史家もいる。とにかく、これは一個の残酷な歴史の謎だからして、簡単に断定をくだすわけにはいかないのである。

おそろしいことに、法王チェザーレとが飲んだ毒は、五日後に効き目をあらわす例の「カンタレラ」であった。

法王の容態は八月十六日から十七日にかけて、俄然、悪化した。彼は自分が間違って毒を飲んでしまったことを、知っていたのだろうか。八月十八日についに死ぬまで、そのことに関する疑いは、家族の者にも側近にも、一言も洩らさなかった。あるいは、知っていながら、黙ってあきらめていたのかもしれない。因果応報とはこのことであろう。

夏なので腐敗がはやく、法王の屍体はたちまち見るも無残にふくれあがった。砒素による死はそれほど屍体を膨張させないので、あるいは何か別の毒であったかもしれないし、毒ではなくて、赤痢か何かの悪疫であったかもしれない。

マントヴァ侯がその妻イサベルラに送った手紙によると、

法王の屍体は腐敗し、その口はまるで火にかけた鍋のように、ぶつぶつ泡を吹きはじめた。それがあまりにも長く続くので、埋葬もしかねる有様であった。また、屍体はおそろしく膨れあがり、もう縦横の区別もつかないくらい、もう人間の形とは思えぬくらいであった。人夫がその足に縄を結びつけて、死の床から墓地まで引っぱって行った。とても手で触れるわけにはいかなかった…」

一方、チェザーレも毒にやられて、もう駄目かと思われた。高熱にふるえる彼を、ひとびとは冷たい水の桶のなかに漬けてやった。一説によると、彼は生きた牝騾馬の腹をたち割って、その胎内にもぐりこみ、熱いどろどろの血や臓腑に浸ったそうである。これは古代から伝わる一種の解毒法だ。

しかし、そのために彼は一命を取りとめはしたものの、頭の毛が一本もなくなり、顔が醜く変貌してしまったとも言われている。かつては顎髯のふさふさとした、まれに見る美丈夫であったのに。

その後のチェザーレには、運命の女神もほほ笑まなかった。

アレクサンデル六世の死と、チェザーレ自身の病気とによって、ボルジア家に対する最後の危機が到来した。敵は連盟をつくってロオマに迫り、チェザーレは勢力を失って捕えられ、スペインに送られ、ナヴァールに逃れ、捲土重来の希望もむなしく、ビアナの包囲戦で斬り死して果てた。


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Last-modified: 2005-02-26 (土) 13:04:16