クリスチアン・ジャック監督の『ボルジア家の毒薬』という色彩映画を、読者はおぼえておられるだろうか。あの映画のなかで、チェザーレに扮するのはスペインの名優ペドロ・アルメンダリス、その妹ルクレチアに扮するのは、私がかくべつ贔屓にしているフランスの女優マルチーヌ・キャロルであるが−いちばん印象に残っている場面は何であったかと言えば、にぎやかなロオマのカルナヴァレ(謝肉祭)の夜、長いマントをふわりと羽織り、紫色の仮面で顔をかくし、短剣を身におびた淫婦ルクレチアが、血の騒ぎを抑えきれず、夜の街の喧騒のなかへ、男をあさりに蹌踉と出て行く妖しくも美しい場面であった。

ルクレチアがはたして淫婦であったかどうかという問題については、最近の学者の説によると、疑わしい点が多く、確実な根拠がないらしいのだけれど、こんな振舞いは当時のイタリアの僭主たちがよくやっていたことで、チェザーレ自身、夜中にその護衛兵を伴って、おびえあがったロオマの市中を飢えた狼のように徘徊していた。そしてそれは、ブルクハルトの説によれば、単に民衆に顔を見られることを避けるためばかりでなく、その気違いじみた殺人欲、毒殺の欲望を満足させるためでもあったそうである。

ボルジア家とともに、毒が個人的な復讐と政治的情熱の武器になった。

チェザーレの父はスペイン出身のロドリゴ・ボルジア、すなわちアレクサンデル六世という、まことに権勢欲のつよい貪欲なロオマ法王で、チェザーレはその庶子であった。そしてこの悪逆非道な父子が、毒薬と結びついて世間に知られる、あの凶々しいボルジア家の名を一挙に高からしめたのである。

まず父のアレクサンデル六世は、チェザーレと組んで悪事をはたらく前に、オスマン回教王バジャゼット二世の弟ジジミ(あるいはジュエムとも呼ばれる)を毒殺した。ジジミは兄の回教王に憎まれていて、トルコからヨーロッパまで、転々として逃げまわり、やっとロオマの宮廷に安住の地を見つけたのであったが、当時コンスタンチノープル攻略を夢見ていたフランスシャルル八世が、この若いトルコの王子に目をつけ、身代金をはらって彼の身柄を引き取りたいと法王に申し込んできたのである。

ところが法王は、フランス王の要求を容れて金だけ受け取ると、回教王の機嫌を損ねないように、フランス王に引き渡す前に、ひそかに緩効性の甘い毒薬を飲物に混ぜてジジミに飲ませた。ジジミナポリに着いて、フランス軍の手に渡されるとすぐ死んでしまった(一四九五年)。−これがまず手始めの毒殺である。

その後、法王は息子のチェザーレと手を組んで、ロオマの枢機官を何人も殺し、彼らの財産を次々に奪うことになった。大へんなロオマ法王もあったものである。

一四九八年に、法王庁の大膳職になったユダヤ人の改宗者ペドロ・ダランダは、聖職売買の廉で告発され、二年後にサン・タンジェロの地下牢で変死した。枢機官のミキエル、モンレアレ、ゼノ、フェラーリなどといった人物も、同じく毒殺されたと信じられている。一五〇三年には枢機官バチスタ・オルシニが財産をすっかり剥奪されて、長い病床の末に原因不明の死をとげた。よく馴らされた医者は自然死の診断をくだしたが、誰もこれを信じる者はいなかった。

チェザーレの兄ガンジア公(ジョヴァンニ・ボルジア)が、ロオマ市中を流れるテヴェレ河から、全身に九ヶ所も刀傷を受けた屍体となって釣りあげられたときも、世間はチェザーレの仕業にちがいないと噂した。しかも、この兄弟殺しには、妹ルクレチアをめぐる兄同士の不倫な恋が原因していた、とも言われている。

真偽のほどは分らないが、チェザーレは妹のルクレチアに恋着していて、ルクレチアの夫や愛人になると生命の危険があるということが、すでに当時から世間の定評になっていたのだ。

彼女の最初の夫ジョヴァンニ・スフォルツァも、チェザーレの命令で妻に毒を盛られるところであったが、ひそかにルクレチアに真相を告げられて、危機一髪、馬に乗って大急ぎで街の外へ脱出することに成功した。

スペイン人で法王の侍従だったペドロ・カルデロンも、チェザーレに殺されたが、その理由は「マドンナ・ルクレチアの名誉を毀損せる行為をなした」というのであった。が、じつはルクレチアが彼の種を宿して妊娠したからで、これも兄の嫉妬によるものと言われた。

彼女の二度目の夫になったアラゴン家の庶子ビサグリア公アルフォンゾも、結婚後一年ほどしたある日、ヴァチカン宮殿から出てくるところを武装した兵士たちに襲われて、瀕死の重傷を負い、一ヶ月ほど生死の境をさまよった挙句、ついに寝床の中でみずから首をくくって自殺した。彼はまだ十九歳の美男子で、ルクレチアは彼にぞっこん熱をあげていたそうである。

噂はまだ沢山あるが、淫婦ルクレチアの物語はこの辺で切りあげておこう。


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Last-modified: 2005-02-26 (土) 13:04:17