有名な弁護士のニヴェル師が、不可能と見られた弁護を引受けることになった。愛人サント・クロワを悪魔のような男だときめつけ、神学の書物からおびただしい文章を引用した挙句、この弁護士は、被告によって書かれた告白は証拠としての役には立ち得ない、と繰り返し主張した。しかし、この巧みな弁論も、ほとんど法廷を動かすにいたらなかった。 七月十五日に、最後の機会として、被告に反省と悔悟が求められた。が、侯爵夫人は相変らず黙秘しつづけた。 その後、ソルボンヌ大学神学教授エドモン・ピロ師の手にゆだねられて、それまで頑強に知らぬ存ぜぬを押し通してきた夫人が、急にへたへたと、気力を失ってしまった。ちょうど中世の幼児殺戮者ジル・ド・レエが、犠牲者の家族と対面させられるにおよんで、急にがっくり涙を流し、神の名を呼んで悔悟した時のようである。どんな強い精神力をもったひとにも、気力の弱まる瞬間があるものだ。そこを巧みに利用するのが、すぐれた懺悔聴聞僧というものであろう。その告白があまりに感動的だったので、ソルボンヌの神学教授は、自分の前にいるのは聖女ではないか、と思ったほどであったという。 七月十六日に判決が下されたが、それは夫人にとってあまりに怖ろしいものだったので、審理のやり直しを請願した。ありていに言って、夫人が最後に一切を告白する気になったのも、おそらく火刑法廷の拷問が肉体的に堪えがたかったためではないかと思われる。
ブランヴィリエ侯爵夫人が受けた拷問は、ディクスン・カーも書いているように、この水と漏斗による第一級の責苦であったらしい。さすがの彼女もこれには参ったのであろう。 さて、拷問のあとで、彼女は親殺し犯人用の護送車にのせられて、夜のあいだに、裁判所の監獄からノートルダム寺院に運ばれ、さらにグレエヴ広場へとつれて行かれた。そしてそこで、一夜明けた朝、雨と降る群衆の悪罵を浴びつつ、死刑執行人に首を斬られたのである。まだやっと三十七歳の若さであった。その首は、最後まで貴婦人らしく、権高に、しゃんと伸ばされたままだった。 「彼女のあわれな小さな屍体は処刑のあと、さかんに燃える火のなかに投げ込まれ、その灰は風に散らされた」とセヴィニェ夫人が書いている。「したがって、わたしたちは、彼女の灰をふくんだ空気を呼吸するわけであり、霊の交流によって、ある有毒の気質に侵されるわけでもある…」 セヴィニェ夫人の不安は、ある意味では、原爆実験の大気汚染を心配する二十世紀人の心理と、全く共通だと言えるかもしれない。わたしたちが科学を信じているように、十七世紀の人間は悪霊の存在を信じていたのである。 処刑の翌日、移り気なパリの市民たちは、新たな殉教者の遺骨を拾おうと、まだくすぶっている熱い灰を棒でかきまわした。ブランヴィリエ夫人の遺骨と称するものが、魔除けの護符として高価に売られ出したのは、それからの後の話である。 |