オーストリアの女帝マリア・テレジアの娘として、爛熟したロココ時代のフランス宮廷に輿入れした彼女は、その軽佻浮薄な精神、贅沢好き、繊細、優雅、コケットリーの誇示によって、十八世紀のロココ趣味の典型的な代表者となった。大きな不安を目前に控えた、この十八世紀末の束のまの一時期こそ、最も洗練された、享楽的な貴族文化の絶頂期といえよう。そして彼女の態度、容貌、生活そのものが、まさに完璧に時代の理想を反映していたのだ。 マリー・アントワネットは自分の好みにしたがって、ヴェルサイユ庭園の片隅に、小さな独自の王国を築き上げた。これが名高いプチ・トリアノンの別荘で、フランスの趣味がかつて考案したうちでも最も魅惑的な建物の一つである。美しい女王にふさわしく、極度に線が細く、うっかりすれば崩れそうな繊細巧緻な趣きは、小さいながら、この別荘をロココ芸術の精髄たらしめている。マリー・アントワネットはここで仮面舞踏会を催したり、芝居を演じさせたり、さては、池や小川や洞窟や、農家や羊小屋さえある牧歌的なその庭で、若い騎士たちとかくれんぼをしたり、ボール投げをしたり、ブランコ遊びをしたりして、ひたすら気ままに遊び暮らすのである。 ヴェルサイユから馬車を駆って、お気に入りの扈従ともども、夜ごとにパリの劇場や賭博場へ出かけては、空の白むころにやっと戻ってくるようなこともしばしばであった。衣裳やら、装身具やら、宝石やらに用いる金はおびただしく、ために借金は嵩み、賭博によって補いをつけなければならなかったのだ。警察は王妃のサロンへは踏みこめない。それをよいことに、王妃の仲間はいかさま賭博をしているという、不名誉な噂が巷間の話題になった。 たえず何ものかに急《せ》きたてられるように、次々と遊びを変え、新しい流行に飛びついてゆく彼女の気違いじみた享楽癖は、いったい、どういう性格上の理由によるものだったろうか。宗教心あつい厳格な母親からの警告を聞いて、マリー・アントワネット自身は次のように率直に答えている。すなわち、「お母さまは何をしろとおっしゃるのでしょう。わたしは退屈するのが怖いのです。」と。 この王妃の言葉は、十八世紀末の精神状態を見事にいいあらわしている。崩壊一歩手前で休らった、革命前の貴族文化にとっては、すべてが充足しているという、退屈以外のいかなる精神も見出せないのである。内面的な危機から免かれるために、ひとびとは決して終らないダンスを踊りつづけなければならなかったのである。 それに、マリー・アントワネットの場合には、不自然な結婚生活という、特別な理由が加わっていた。天下周知の事実であるが、彼女の夫であるルイ十六世は、一種の性的不能者で、結婚以来七年ものあいだ、その妻を処女のままに放置しておいたのである。このことが、マリー・アントワネットの精神的成長におよぼした影響は、決して軽々に看過すべきではなかろう。彼女が次々と快楽を追う気まぐれな生活のうちに、怖ろしい退屈を忘れなければならなかったのも、ひとつには、むなしく刺激を受けるだけで、一度たりとも満足させられたことのない、幾年にもわたる夜のベッドの屈辱の結果であった。最初は単に子供っぽい陽気な遊び癖であったものが、次第に物狂おしい、病的な、世界中のひとびとがスキャンダルと感じるような享楽癖と化してしまい、もうだれの忠言も、この熱病を抑えることは不可能となってしまうのである。 一方、国王ルイのふしぎな道楽といえば、錠前仕事と狩猟をすることで、専用の鍛冶場で黙々と槌をふるったり、獣を追って森を駆け抜けたりするのが、彼にとって何よりの幸福であった。派手好きな妻とは趣味が合わないが、彼は妻に対して男性としての引け目を感じているので、まったく頭が上がらない。生まれつき鈍感で、不器用で、優柔不断で、いかなる場合でも睡眠と食欲を必要としないではいられない彼は、およそ繊細とか、敏感とかいった気質と縁がない。つまり、妻とは正反対の気質の持主である。といって、夫婦のあいだに風波が起ったということは一度もなく、この二人は子供こそないが、まことにのんびりした、平和な夫婦であった。 後にマリー・アントワネットの兄ヨーゼフ二世がひどく心配し、ウィーンからパリにやってきて、国王ルイに勧めたのが外科手術だったと伝えられる。その結果、力づけられた王は新たな勇気をふるい起して、結婚の義務の遂行にとりかかる。こうして七年間にわたる悪戦苦闘の末に、ようやくマリー・アントワネットは母になる幸福を味わうことになった。「わたしは生涯において最大の幸福に浸っております」と彼女は、はじめて夫が満足に義務を果たしおえた日の翌日、母のマリア・テレジアにかき送っている。 |