だが、こうしたアントニウスのもとへ、ある日、ローマから不意の知らせが届いた。妻のフルヴィアと弟のルキウスが共謀して、オクタヴィアヌスと戦争をはじめたというのである。フルヴィアのつもりでは、夫の政敵オクタヴィアヌスを倒すというより、むしろ夫を面喰わせて、クレオパトラから彼を引き離すための行動だった。 アントニウスは二日酔の醒めやらぬ面持で、ともかく腰を上げ、早くも敗走してきたフルヴィアとアテネで落ち合った。ふたたびローマへ向う途中、フルヴィアは病気になって死んでしまった。 オクタヴィアヌスは、まだアントニウスと戦うほどの気はなかったので、すすんで和解の手を打ち、その保障として自分の姉オクタヴィアを、フルヴィアなきあとのアントニウスの妻にと申し出た。アントニウスは同意した。 アントニウスがただ政略のためだけにオクタヴィアと結婚したなどと思ってはいけない。彼女は最近前夫を喪ったばかりだったが、まれに見る美しさと淑徳を兼ね具えていて、ローマでは評判の婦人だった。アントニウスはやさしい夫になった。アレクサンドリアの思い出はほんの一場の夢にすぎなかったのだと、強いて自らにいいきかせながら。 クレオパトラはこうして三年間、アントニウスの忘れがたみの双生児を育てながら、不安のうちに恋人からの便りを待っていた。 新しい妻にもようやく倦きたところで、アントニウスはペルシア征討に出陣することになる。シリアに近づくにつれ、クレオパトラの思い出が刻一刻よみがえる。急使が立てられ、クレオパトラは飛立つ思いで駆けつける。ペルシアこそは彼女の年来の望みの地だったのだ。 賢い彼女は、過去三年間の怨み言ひとつ洩らさなかった。アントニウスはその心根をいじらしく思い、結婚の約束をした上、フェニキアやキュプロスやユダヤの一部など、思いきりたくさんの領土を贈物にした。 アントニウスはシリアからさらに小アジアに転戦したが、早く戦を切り上げてクレオパトラに会いに生きたいという思いばかりが急で、かえって焦って失敗し、彼女に泣きついて糧食や被服の援助を乞う始末だった。 オクタヴィアは夫の苦戦を聞くと、自ら二千の精兵を引具してローマを発った。この知らせはクレオパトラにとって晴天の霹靂だった。彼女は泣き落しの一手に頼った。わざと減食して窶れた顔をつくり、目には泪をためて、絶えなんばかりのようすだった。アントニウスは心乱れ、オクタヴィアにはローマへ戻るよう使いを出して、クレオパトラと共にエジプトへ帰った。 約束の結婚式が挙げられた。銀の台座に金の椅子を並べて、アントニウス・オシリス・バッコスとクレオパトラ・ウェヌス・イシスが坐った。二人のあいだに生れた双生児には、ヘリオス(太陽)とセレネ(月)の名があたえられた。 敬愛する姉が侮辱を受けたのは、ローマのオクタヴィアヌスにとってよい口実だった。アントニウスとオクタヴィアヌスは、いつかは戦わねばならぬ運命にあったのだ。決戦はギリシアの西北アクティウムの湾内で行われた。海戦を主張したのはクレオパトラだった。彼女は戦闘開始に先立ち、アントニウスを説いて、ついにローマのオクタヴィアに離縁状を送らせることに成功した。 この時クレオパトラがどういう心理だったのかは、いまでも史家のあいだで謎とされている。海戦がはじまり、両軍伯仲するかと見えたとき、突然彼女の艦隊は帆をあげて、外海めざして脱走してしまったのである。敵も味方もあっけにとられた。さらに驚いたことには、茫然としたアントニウスが、必死の戦いを続ける部下を見殺しにして、戦場から脱け出し、単身で恋人のあとを追っかけはじめたのだった。戦いはもちろんオクタヴィアヌスの一方的な勝利に帰した。 アントニウスの胸には後悔と疑惑が渦を巻いていた。事実、クレオパトラは、すでにアントニウスに見切りをつけ、オクタヴィアヌスの勢力を自分の将来に結びつけて考えはじめていたのである。二人は表面仲よく相談して、オクタヴィアヌスに和議を申しこんだが、そのたびに、彼女から、アントニウスには内緒の贈物や手紙が添えられていた。 憂さ晴らしの宴会が続き、前から続いていた「無双の会」に、今度は「共に死ぬ会」というのが加わった。クレオパトラは死刑囚をつかって、どんな毒が一番楽に死ねるか、さまざまな毒薬の実験をこころみた。 ついにオクタヴィアヌスがアレクサンドリアまでやってきた。アントニウスは一騎打ちを申し入れたが、死に方はいくらでもあるだろうに、というオクタヴィアヌスの返事だった。アントニウスは戦死を覚悟で、海陸から攻撃の準備をした。 ところが彼は、またしても裏切られたのだった。開戦と同時に、アントニウスの艦隊はいっせいにくるりと向きを変え、オクタヴィアヌスの軍勢と一体になって、町に攻寄せてきたのである。陸では騎兵隊がやはり寝返りをうった。 クレオパトラはアントニウスの怒りと狂乱をおそれて、かねて造ってあった自分の墓廟に逃げこみ、彼女が自殺したといいふらせた。アントニウスは、もはや命を惜しむ理由がなくなったと叫んで、腹に剣を突き立てた。そこへクレオパトラが生きているとの報がはいった。アントニウスは瀕死の身を墓に運ばせて、彼女の胸にいだかれて息を引きとった。 クレオパトラの夢はまだ破れてはいない。彼女はオクタヴィアヌスとの会見に、一縷の望みをかけている。自分が女であることを、彼女はどんなに力強く思ったことだろう。 だが会見の席上、オクタヴィアヌスはあくまで冷静を守り通した。どんな悲嘆の身振も、弁明も、いまは通じなかった。クレオパトラの自信は崩れた。 自信の崩れたとき、彼女にはもはや道は一つしかなかった。 数日後、ひとりの百姓がイチジクの籠を彼女にとどけにきた。番兵が気がついた時には、クレオパトラは黄金の玉座に、女王の正装をして死んでいた。籠の底にかくされた小さなアスピスという毒蛇に、乳房を咬ませたのである。 アスピスの毒は、服用者が眠るがごとく穏やかに死ぬことのできる毒であり、その効果は、かつで「共に死ぬ会」で奴隷をつかって実験済みのものだった。 |