臆病なネロには、なかなか母親を殺害するまでの決心がつかなかったようであるが、彼の側近のなかには、かなり以前から強硬意見を主張する者もあった。たとえば、ネロの学問上の師であった哲学者のセネカも、その一人であったらしい。温厚な哲学者には、野心家のアグリッピナの振舞が嫌悪の的であったのだろう。しかし、最も過激な意見を皇帝に押しつけてきたのは、当時ネロが首ったけになっていた女ポッパエアであった。

美女ポッパエアは、ネロの心を完全に掌握し、後には彼に数々の愚行を犯さしめた、ふ
しぎな魔女的性格の女である。シェンキエヴィチの『クオ・ヴァディス』のなかでも、彼
女はまるで淫蕩の化身のように毒々しく描かれている。二度目の結婚で、彼女は若い美貌
の貴族オトの妻になったが、このオトは、じつはネロの男色の相手であった。ネロが自分
の妻に惚れると、オトは異議なく離婚に同意し、ポッパエアを皇帝に譲った。この複雑な
男女三人の愛情関係は、当時のローマの頽廃した性風俗を頭に入れておかなければ、理解
しがたい奇妙な関係としか思われないであろう。

さて、ネロの情婦となったポッパエアには、是が非でも皇妃の地位につきたいという野心があった。そして、そのためにはアグリッピナの存在が何より邪魔だったのである。彼女はネロを執拗に説いて、ついに母親殺害に踏み切らせた。

しかし、今度の犯罪は、ブリタニクスの場合のように簡単にはいくまい。アグリッピナはだれよりも毒薬の知識にくわしいし、彼女の手もとには、あらゆる種類の解毒剤も取り揃えてある。迂闊に毒などを盛ったとしても、彼女の場合には通用しない。いや、むしろ失敗の危険のほうがはるかに大きいだろう。

ネロは頭を悩まし、一計を案じた。

まず母親に手紙を書き、バイエーの町でミネルヴァの祭儀を行うから、ぜひ出席してほしいとてい重[#ていは鄭の旧字]に誘った。手紙には、やさしい心づかいと愛情があふれていた。母親は最初、不審の念を起したが、あらためて手紙を読み返してみて、心が躍ってくるのを抑えることができなかった。これでもう一度、息子の心を支配することができる…「あの子は、あなしなしでは生きてゆかれないんだわ」と彼女は思った。

バイエーの町では、彼女は主賓として手厚くもてなされ、王家の別荘で彼女のために盛大な晩餐会がひらかれた。アグリッピナはちやほやされ、有頂天になって喜んだ。

やがて晩餐会が終り、彼女の帰館の時が近づくと、皇帝は母親に向って、「道中轎《かご》ではお疲れでしょうから、あなたのために舟を一艘用意しておきました」といって、港まで彼女を案内して行った。

舟着き場で、ネロは名残り惜しそうに、何度も母親に別れの接吻をした。「彼女の乳房にまで接吻した」とタキトゥスが報告している。母親は感動し、嬉し涙にくれた。やがて舟は静かに沖へ出る。

舟のなかには、屋根のついた立派な座席があり、アグリッピナは満ち足りた心で、そこに腰を落着けた。まことに快適な舟旅であった。彼女のそばには、侍女のアケロニアが坐っていた。

ところで、この舟には怖ろしい仕掛けがあったのである。歯車の装置で、舟底にぱっくり大きな孔があくようにできていた。アグリッピナを舟もろとも沈めてしまおうという計画である。

沖合いはるかの距離に達すると、ネロの腹心の部下アニケトゥスが、やおら立って歯車装置を動かしはじめる。しかし機械が故障しているのか、思った通り舟底に孔はあかない。それどころか、舟はぐるぐる廻りはじめ、鉛の重石をつけた屋根が、がらがらと大きな音を立てて頭上に崩れてきたのである。

たちまち、舟のなかには大混乱を呈した。船頭は驚いて右往左往する。アニケトゥスは歯がみして口惜しがり、アグリッピナを刺し殺そうと、彼女のすがたを追い求める。しかし彼女はすでに水に飛びこんでいたので、身代わりに殺されたのは、侍女のアケロニアであった。

アグリッピナは水泳が達者であった。岸まで泳ぎつくのに困難をおぼえなかった。こうして彼女は一命を取りとめると、ただちにバウリの別宅からネロへ宛てて、皮肉たっぷりの手紙を書いた。

てっきり母親が死んだと思っていたネロは、彼女の手紙を開封して、すっかり度を失った。恐怖に蒼ざめ、取り乱し、わなわな慄えつつ、セネカブルルスに相談した。「どうしよう…お母さんが親衛隊の兵士に護られて、都へ攻めのぼってくるかもしれない…」しかし、これは取り越し苦労にすぎなかった。

結局、失敗した計画の張本人であるアニケトゥスが、責任を取らされることになった。彼は匕首を懐に呑んで、部下とともにアグリッピナの別宅に駆けつけた。

アグリッピナの家では、召使がみんな逃げてしまって、彼女がただひとり、ランプに照らされた薄暗い部屋に坐っていた。アニケトゥスの一隊がどやどや侵入してくると、彼女は立ち上がって、「無礼者。お前たちは何しにきたのです。わたしの息子には、親殺しなんてできるはずがありません」と大喝した。

が、兵士たちは物もいわず、彼女に斬りかかった。短刀の第一撃は、彼女の頭に加えられた。アグリッピナは倒れながら叫んだ、「お腹を刺すがいい!皇帝はここから生まれたんだから!」と。

母親の屍体が目の前に運んでこられると、ネロは彼女の衣類をすっかり剥ぎとって、その肌に手をふれつつ、「ああ、お母さんはきれいな身体だったんだな!」といったそうであるが、-スエトニウスの伝えるこのエピソードには、どうやら、あまり真実味がないように思われる。


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Last-modified: 2005-02-26 (土) 13:05:15