もっとも、『日記』には、敦道親王の死までは書かれてなく、歌のやりとりから始まったロマンティックな二人の恋の初期から、やがて人目を忍ぶ仲になり、世間の噂の種になり、二人のあいだに誤解やら嫉妬やらがあった末に、ついに親王が意を決して、妃がいるにもかかわらず、恋人を本邸に迎えようとするところまでで終っている。 たしかに式部は惚れっぼい、浮気な、悪くいえば色好みな女であったのかもしれないが、自分を心から愛してくれた純情な兄弟に二人まで、次々に死なれたという事情を考えてみれば、その後の彼女の男性遍歴も、一概に非難することはできないような気がする。その心に、彼女がどんな深い傷を負い、どんな深い悲しみをいだいていたかは、だれにも分らないからである。 二人の親王に死なれると、式部は一条天皇の中宮彰子《しょうし》の御殿に宮仕えすることになったが、ここには紫式部、赤染衛門などのような、口うるさい才女連中も多くいたはずだから、彼女の奔放な行動は、さぞ噂の種になったことであろうと想像される。 チェホフの『可愛い女』ではないが、和泉式部のような多情多感な、そして一見したところ、自由恋愛のチャンピオンのようにも思える女性にも、結局、男にすがらなければ生きて行けないような、生ま身の女の弱さがあったのであろうか。
こんな歌にも、やはり女の恥じらいがよく出ているように思われる。 |