二十年間、火のような恋文を書きつづけたひと口にプラトニック・ラヴとは言っても、歴史に名高いアベラールとエロイーズの関係は、ちょっと特殊な場合のようである。というのは、男の方が思いがけなく性的不具者になってしまったので、二人はやむを得ず、プラトニックな愛情を手紙の中で綿々と語らなければならなくなった、という事情があったからである。 アベラールは中世のフランスの大学者で、パリに学校をひらき、大ぜいの弟子を集めて、哲学と神学を教えていた。その名声はヨーロッパ中にとどろき、今日で言えば、映画スターやスポーツ選手並みの人気であったらしい。だから、アベラールのまわりには若い女性ファンが群がり、艶聞が絶えなかったという。 たまたま、知人に頼まれて、アベラールは、自分が下宿している家の主人の姪を教育することになった。これが十七歳の美少女エロイーズである。アベラールは当時四十歳。男ぎかりの美男子であったうえに、音楽や歌にもすぐれた才能を示していたから、若いエロイーズが、この大学者の先生にすっかり魅了されてしまったのも無理はなかった。 あるとき、教育上の目的のために女弟子のお尻をたたいているうちに、つい肉の誘惑に負け、この大学者先生が、彼女と道ならぬ関係をむすんでしまったのである。 やがてエロイーズが妊娠したことが隠し切れなくなった。アベラールは、彼女をひそかにブルターニュの親類のところへやって、そこでお産をさせた。そして彼女に結婚を申しこんだのであるが、意外なことに、エロイーズはこれに反対した。「才能ある男性は、妻子などにわずらわされてはなりません。あたしは一生、日蔭者でも結構ですから」と彼女は答えたのである。現代の女性には、とても考えられないことである。 しかし、エロイーズはそれでもよかったが、彼女の叔父は、そうはいかなかった。カンカンに怒って、自分の姪を誘惑したアベラールに、おそろしい復讐を企てたのである。ある晩、数人の仲間を連れて、アベラールの寝室を襲い、彼をベッドの上に押さえつけて、去勢してしまったのである。アベラールは、気の毒にも、男性器官をちょん切られてしまったのだ。 スキャンダルが大きくなり、アベラールはパリを逃れて僧院に入り、エロイーズも子供をあずけて、尼僧になった。別れ別れになった二人が取り交わした愛の往復書簡は、あまりにも有名である。その中で、たとえばエロイーズはつぎのように書いている。 「あなたにとって、《妻》という名がより神聖な、より名誉ある名に思われたとしても、わたくしにはいつも、あなたの《情婦》と名のることのほうが、ずっと嬉しく思われたのでございます。いえ、もしあなたさえお気を悪くなさらなければ、いっそあなたの《娼婦》と名のりたいのです」 現代の女性には、こういう女の気持は、もう理解できないだろうか。 |