伝説では、ネロはローマの都を焼いた、残虐無類な暴君ということになっているが、実際には、まことに弱虫で、音楽や詩を好み、ただ遊び暮らしていれば満足な男だったので、陰謀家の母親に対して、いつも恐怖心をいだいていたらしい。だから、彼が異母弟のブリタニクス(メッサリーナの子)を殺したのも、ネロにかえてブリタニクスを皇帝にしようとしていた母親の陰謀を恐れて、仕方なしにやったことだったという。 皇妃としての地位を安泰に保つためには、貞操を売ることも平気だったアグリッピーナは、一時、自分の息子にまで色目を使ったというから、驚いた話である。意志の弱いネロは、この誘惑をしりぞけることができなかったが、さすがに、すぐ厭気がさして、息のつまりそうな母親の重圧から逃れた。 やがてネロの側近のなかに、強硬意見を主張する者が出てきて、っいに彼は母親殺害を決意する。 ネロは頭を悩ました末に、うまい計略を思いついた。 ネロは、アグリッピーナを海辺の別荘に招待した。そして晩餐会がおわると、舟を用意させ、これに母親をのせて送ろうとしたのである。アグリッピーナは喜んだ。 ところで、この舟には、巧妙な仕掛がしてあった。舟が沖合に出ると、歯車の装置で、舟底にばっくり大きな孔があくのだ。しかし機械が故障していたのか、舟はぐらぐら揺れるだけでなかなか沈まない。泳ぎの達者なアグリッピーナは、計略を見破って、岸まで悠々と泳いで渡ってしまった。 もうこうなっては、早く事を決着させねばならない。ネロは部下に命じて、さっそくアグリッピーナの邸に兵隊をさし向けた。短刀の一撃が、彼女の頭に加えられると、この気丈な女は、倒れながら叫んだ。 「お腹を刺すがいい!皇帝はここから生まれたんだから」と。 こうして、この稀代の大悪女は、自分の息子に殺された。権力を握った者の末路は、いつもこんな風に、あわれなものだ。 |