クレメンス7世は二人存在する。 毒薬の手帖で言及されたのは、,アヴィニョン法王庁のクレメンス7世 クレメンス7世(在位1378〜94)は対立法主。ウルバヌス6世に不満な者たちに擁立されてアヴィニョン法王庁を主宰し,フランス以下諸国の承認を得て法燈分裂を現出した。 クレメンス7世1478〜1534(在位1523〜34)ルネサンス末期,宗教改革時代のローマ法王。俗名ジュリオ=デ=メディチ。フィレンツェの権門メディチ家の出身で大ロレンツォの甥。豪奢な宮廷生活を愛好するのがふつうであった当時の法王のなかでは稀なほど質素な教養人であったが,政治的には定見を欠いた。イタリアに及ぶ2大勢力,皇帝カール5世とフランス王フランソワ1世のあいだに立たされ,初め皇帝と結びながらのちに彼と敵対したため,皇帝軍にローマを占領され(1527)自身も捕虜となる。皇帝と妥協し,メディチ家のフィレンッェ政権掌握に関する援助を得た。イギリス王ヘンリー八世の離婚に反対して王の反発を招き,これはイギリスにおける宗教改革の発端となった。 |