久生十蘭 虹の橋
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一
[#ここで字下げ終わり]
北川千代は栃木刑務所で服役中の受刑者で、公訴の罪名は傷...
受刑者名簿には北川千代となっているが、記名の女性は二十...
女囚が抱いて入ってきた携乳《けいにゅう》(携帯乳児)や...
真山あさひは所内で女の子を産んだが、そのあさひ自身、二...
分娩後、間もなく母が死んだが、そのころは児童福祉法の里...
十六歳の春、あさひは本院を出て「社会」に入ったが、戸籍...
じぶんのもぐりこめる世界は、せいぜいダンサ−か女給、ひょ...
二十二年の秋、将来、こういうこともあり得るだろうと予想...
大阪に着くなり、行きあたりばったりに駅前の闇市のバラッ...
その店に二た月ほど居たが、十一月のすえ、客の立てこむ混...
いくらか大阪の地理がわかるようになったので、千日前の十...
真山あさひの本籍は東京都板橋区板橋五ノ一〇一四の東京養...
二十六年の暮、あさひは須磨明美という名で飛田大門通りの...
雨後の夕凪で、昼間の暑気が淀みのこり、蒸し釜で蒸しあげ...
「ちょっと、いいところじゃないの……さっそくだけど、二三日...
「いいわよ……ひどい汗。話はあとにして、ともかく裸におなん...
「大阪の夏って憂鬱ね……じや、裸になるわ」
千代はパンティだけになって、窓際の畳のうえに足を投げだ...
「お店のせいばかりでもないけど、急に里心がついちゃって、...
「六年よ」
「そういえば、あたしも六年だわ」
「東京の住い、どちら」
「麻布の霞町……何代となく深川に住みついていたんですけど、...
「たいへんね」
「土地馴れない山の手なんかへ越して、ご近所の世話になって...
「たよりはしているの」
「このあいだ、近々に帰るって、手紙をだしたけど……」
「そんならお帰んなさいよ。そのほうがいいわ」
「あっさりいうわね……あたし、それとなく観察していたんだけ...
この六年、重っ苦しい過去の家族史を忘れて、ひと並みにの...
「あなた、しあわせよ。あたしなんか、東京へ帰ったって、帰...
「それゃね、無理強いするようなことでもないわ……悪いけど、...
「こんな暑っくるしいところで寝なくとも、六甲か和歌浦か、...
「グリ公は宝塚へ行こうというんだけど、今夜は、二人っきり...
できそくないの木像のような妙にギョロリとした顔をしてい...
春の終りごろ、この小説の中に、君のようなひとがいる。読...
わねといったが、読む気などはなかった。持って帰ったなりで...
薄目になって、でたらめに拾い読みをしているうちに、ベル...
それがなんであるのか、あさひにはよくわからなかったけれ...
ベルトが会堂へ行って、
(神さま、ふだんのあたしを知っているひとたちは、こんなと...
ベルトのあわれなようすが見えるようで、いくども読みかえ...
[#ここから4字下げ]
二
[#ここで字下げ終わり]
「この一と月ほど、ああだこうだと押しあっていたんですけど...
あさひ自身、送ったり送られたりしながら、そのまま仲間の...
「夜具なんかないけど、ごろ寝でよかったら」
「結構よ。じや、呼んで来るわね」
スーツ・ケースから浴衣をだすと、千代は伊達巻をひきずり...
なにかもめているらしく、だいぶ暇がかかったが、十分ほど...
「すみません。宝塚へ行こうと言ってるんだが、どうしてもい...
「いいのよ、おかまいできないけど」
近くの仕出し屋が冷しビールを持ってきた。
一時ごろまでしゃべって、座布団を枕にして思い思いにごろ...
「朝までマジマジしているんじゃ、たまらないわ。グリさん。...
若槻はボストン・バッグをひきよせて、ブロバリンの小瓶を...
「二錠くらいにしておけ。飲みすぎると、だるくて起きられや...
「わかってるわ……真山さん、どう? ありふれた薬だけど、眠...
「睡眠剤?……暑さがつづいたせいか、この二三日、眠ったよう...
あさひにとって、その夜は平凡な夜ではなかった。重苦しい...
あさひはだんだん不安になり、神経が緊張して、これ以上耐...
考えているうちに、痺れるような眠りのなかで夢を見た。その...
どれくらい時間が経ったかわからない。あさひの感覚にぼん...
半醒の混濁した意識の中で、たいへんなことになった、なん...
それなり深く眠りこんでしまい、はっきりと眼をさましたの...
そろそろと照りつけてきた、きびしい陽の色を浴びながら、...
「あれがほんとうの営みというものなんだわ」
クリンジング・クリームで顔の寝脂《ねあぶら》を拭きとり...
口惜しいような気がするが、といって不当に侵かされたとも...
千代は最終のフェリーボートで帰ってくるといっていたが、...
若槻と千代はあの日は洲本《すもと》の四洲園で一泊し、翌...
北川千代が宿帳にあさひの名をつかったことは、仲間のあい...
なにか、ひっかかりがくるのではないかと不安になりながら...
「真山あさひなんていう女は、無くなったって惜しいことはな...
部屋の隅に千代のスーツ・ケースが置かれてある。あの夜、...
北川千代……昭和五年生れ。本籍は江東区。祖母はフサ。父は...
履歴書の方は、深川第一小学校、日本高女の技芸科を二年。...
あさひは戸籍謄本と履歴書をもとのところへ戻すと、スーツ...
ぅことなのか、あさひは心の深いところでうすうす感じていた。
「真山あさひは千草の土の下へ入ってしまったんだから……」
なんのめんどうもなく北川千代という女に転身することがで...
「そうだったら、どんなにうれしいだろう」
しかし、これは過去に拭いがたい汚染をもっている人間の、...
[#ここから4字下げ]
三
[#ここで字下げ終わり]
フサの手をひいて銭湯から帰ると、あさひは奥の八畳へ手ば...
「疲れますからね……一時間ほど、床にお入ンなさるといいわ」
耳に口をつけてそういうと、フサは白髪頭をうごかして、そ...
こうなさいといえば、うむ、それがいいでしょうといえば、...
福々とした、おとなしやかな顔だちで、身だしなみがいい。...
はじめのうちは、罪の感じに追いたてられ、こんな善良な老...
フサは蒲団の端をさぐると、居なりのまま膝をまわし、裾も...
「おしも[#「しも」に傍点]はいいんですか。煙草も飴もここに...
「うむうむ」
笑皺《えみしわ》がおさまって静かな顔つきになったので、...
「いまでも、時々あなたの夢を見ることがあるのよ。遠いとこ...
「あたし、ここにいるじゃありませんの」
落着いて言いかえしたつもりだったが、動惇がして語尾が嗄...
「どこだかわからないけど、遠いところにいて、いつ逢えるだ...
屈託のない、おおまかなひとだが、鷹揚すぎて心の中を測り...
青山と麻布の高台に挟まれた谷底のような陰気な町筋を、一...
「家を探しているんですか」
「北川って家なんですけど」
「北川さんなら突当りです」
先に立って格子戸を開け、
「こんちは、北川さん」
と高っ調子をはりあげると、奥まったところから落着いた声...
「徳さんですか。勝手へ廻ってください」
「ここまで這いだしてくださいよ。お客さんです……若い女のひ...
「また担ぐんでしょう」
白髪をオールバックに撫でつけ、結城の裁着《たつつけ》の...
「失礼申しました……このひとたち、くだらないことをいって担...
「あのう、あたしは……」
あさひが挨拶しかけると、
「大きな声で飯嶋らないと、聞えやしねえよ。耳が遠いんだか...
御用聞きがそばで世話をやいた。
「大阪からまいりましたものですけど」
御用聞きは横合いからひったくって、
「あんた千代さんでしょう。おばあさん、毎日、首を長くして...
そういうと、おばあさんの耳に口をあてて、
「お待ちかねのひとが帰ってきたよ。びっくりさせようと思っ...
おばあさんは立身になると、両手を泳がせながら、
「あら、千代さんだったの……よく帰ってきておくれだっ
た。手紙が釆てから二十日にもなるのに、音沙汰がないもんだ...
御用聞きはスーツ・ケースをひったくって、あさひを二畳へ...
「家主《おおや》さんに、そう言ってくら」
むやみな声で呶鳴りながら露路を駆けだして行った。玄関の...
「ご大層な靴があるな。帰ったんだね」
といいながら五十二三の 赧ら顔の男が入ってきた。おばあ...
「金井さんですか。ご心配をかけましたが、千代が帰ってきま...
顔に手をあててさめざめと泣いた。
「よかった、よかった。これで、ご隠居さんも安心だな」
この家の玄関を入るとき、あさひは非情なほど冷静で、あっ...
「ただいま帰りました。祖母がいろいろとお世話になりまして…...
と、ひとりでに言葉が、辷りだしたが、その場の調子で、不...
最初の日は、大阪の話などしてお茶を濁した。日がたつにつ...
「夢の話はね、あとでゆっくり聞きます。血圧があがるといけ...
「そろそろ眠りかけている」
「嘘ばっかし。そばにいると、ご機嫌がよくなってだめなのね...
フサは眠るつもりになったらしく、うむとうなずいた。つく...
あさひは茶の間を通って勝手へ行った。水口が電路につづく...
あさひは、水口のガラス戸に凭れて、夕食のお菜はなににし...
[#ここから4字下げ]
四
[#ここで字下げ終わり]
玄関で声がするので出てみると、三十七八の削《そ》げたよ...
「北川千代さんというのは?」
「あたしです」
「赤坂署のものだが、手間をとらせないから、ちょっと署まで」
「眼の不自由な老人《としより》が寝て居りますのですが、こ...
私服は、いけぞんざいな口調になって、
「君のほうが、工合が悪いんじゃないのか」
と陰気な声でせせら笑った。その声のひびきの中から、破綻...
「警察から呼びに釆ましたから、行ってきます。あとのことは...
と、フサにいったが、返事がなかった。しばらくしてから、...
「何もかもすまして、きれいな身体になって帰ってきたのだと...
「それはなんのこと?」
「よしよし、早く帰ってきなさい。身体に気をつけてね」
警察へ行くと、すぐ二階の刑事部屋へ入れられた。狭いとこ...
永田という私服は奥まった机の前へあさひを連れて行くと、...
銀座のバアで女給をしていたことは千代から聞き、履歴書で...
「ございます」
永田は刑事たちのほうへ振返って、
「こいつに、まちがいはないんだね」
と念をおした。刑事たちがうなずくと、永田は物入れからペ...
「おばえがあるだろう」
手にとってみたが、おぼえなどなかった。
「ないわけはない。五年も六年もずらかっていやがって、よく...
調べ室へ連れられて行かれて、本式の取調べになった。
北川千代が「ベラミ」で女給をしているとき、末延薩夫とい...
「聴取書では、末延はお前が突き落したと証言しているんだぜ...
『このごろ、死ぬような気がして、不安でしようがないのよ。...
『おれはなかなか死にそうもないよ』
『たいへんな自信ね。ほんとうに死なない?』
『健康すぎて困っているくらいだ』
『あなたは死ぬわ。それも間もなく』
『どうしてだい!』
『あたしがあなたを殺すからよ』
そういって末延に猟銃をつきつけた。曳鉄《ひきがね》をひく...
母の前科と出生の秘密を消そうとして、傷害殺人の前科を背...
あさひの房は廊に近い奥の室で、四畳半ほどの広さの板敷に...
取調べのない日は、あさひは一日じゅう壁に向って坐ってい...
そのほうは耐えれば耐えられるが、かなわないのは房の中で...
翌日、永田は、いつもとちがう調子で絡みついてきた。
「白状さえすれば、おばあさんにも逢わせるし、差入れもゆる...
実家《さと》帰りはいいとしても、母子二代、刑務所の産室...
「大阪では、こういう家とこういう家に働いていましたから、...
翌日、永田が投げだすようにいった。
「どの家にも、真山あさひという女が働いていた事実はなかっ...
「それが北川千代です……働いていた事実がないとおっしいまし...
「お前は三十回以上も職を変えたそうだが、お前をひっぱって...
警察とのやりあいが、きまりのつかないうちに拘留満期とな...
「お前は北川フサのところでも、警察でも、北川千代と名乗っ...
「そうです」
「自分が北川千代であることを肯定しながら、北川千代の犯罪...
「そんなことがあったかもしれませんけど、それはあたしでは...
「真山あさひという女は、昭和五年の五月に栃木の女囚刑務所...
「だから、立証できる方法を考えていただきたいと申しあげて...
「警察から照会した原籍役場の回答では、北川千代は生存して...
「北川千代は淡路島で死にました」
「するとお前は、北川千代が死んだのを承知で、北川千代と名...
「一口には申しあげかねます」
「それはよろしい……北川フサは縁もゆかりもない赤の他人だと...
「北川フサはそんな事をいってるんですか」
「誰も強いたわけではない……お前は徹頭徹尾、なにもかも否定...
「お尋ねいたします。北川フサは、北川千代のことをどんなふ...
「ひとを殺せるような娘ではないから、なにかのはずみだった...
「一日も早く、帰ってほしいといったのですね」
自分の帰りを待っていてくれるひとがいる。あさひの幸福は...
「お手数をかけました……あたしは北川千代でございます。公訴...
真山あさひの北川千代は、現在までに刑の三分の二を終えた...
真山あさひの娘は、二十九年の六月まで所内の乳児室にいた...
最近の手紙には、こんなことが書いてあった。
この三年の間に、所内でいろいろと勉強させていただいたの...
私としましては、子供に別れたくないのですが、娘が結婚す...
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一
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北川千代は栃木刑務所で服役中の受刑者で、公訴の罪名は傷...
受刑者名簿には北川千代となっているが、記名の女性は二十...
女囚が抱いて入ってきた携乳《けいにゅう》(携帯乳児)や...
真山あさひは所内で女の子を産んだが、そのあさひ自身、二...
分娩後、間もなく母が死んだが、そのころは児童福祉法の里...
十六歳の春、あさひは本院を出て「社会」に入ったが、戸籍...
じぶんのもぐりこめる世界は、せいぜいダンサ−か女給、ひょ...
二十二年の秋、将来、こういうこともあり得るだろうと予想...
大阪に着くなり、行きあたりばったりに駅前の闇市のバラッ...
その店に二た月ほど居たが、十一月のすえ、客の立てこむ混...
いくらか大阪の地理がわかるようになったので、千日前の十...
真山あさひの本籍は東京都板橋区板橋五ノ一〇一四の東京養...
二十六年の暮、あさひは須磨明美という名で飛田大門通りの...
雨後の夕凪で、昼間の暑気が淀みのこり、蒸し釜で蒸しあげ...
「ちょっと、いいところじゃないの……さっそくだけど、二三日...
「いいわよ……ひどい汗。話はあとにして、ともかく裸におなん...
「大阪の夏って憂鬱ね……じや、裸になるわ」
千代はパンティだけになって、窓際の畳のうえに足を投げだ...
「お店のせいばかりでもないけど、急に里心がついちゃって、...
「六年よ」
「そういえば、あたしも六年だわ」
「東京の住い、どちら」
「麻布の霞町……何代となく深川に住みついていたんですけど、...
「たいへんね」
「土地馴れない山の手なんかへ越して、ご近所の世話になって...
「たよりはしているの」
「このあいだ、近々に帰るって、手紙をだしたけど……」
「そんならお帰んなさいよ。そのほうがいいわ」
「あっさりいうわね……あたし、それとなく観察していたんだけ...
この六年、重っ苦しい過去の家族史を忘れて、ひと並みにの...
「あなた、しあわせよ。あたしなんか、東京へ帰ったって、帰...
「それゃね、無理強いするようなことでもないわ……悪いけど、...
「こんな暑っくるしいところで寝なくとも、六甲か和歌浦か、...
「グリ公は宝塚へ行こうというんだけど、今夜は、二人っきり...
できそくないの木像のような妙にギョロリとした顔をしてい...
春の終りごろ、この小説の中に、君のようなひとがいる。読...
わねといったが、読む気などはなかった。持って帰ったなりで...
薄目になって、でたらめに拾い読みをしているうちに、ベル...
それがなんであるのか、あさひにはよくわからなかったけれ...
ベルトが会堂へ行って、
(神さま、ふだんのあたしを知っているひとたちは、こんなと...
ベルトのあわれなようすが見えるようで、いくども読みかえ...
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二
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「この一と月ほど、ああだこうだと押しあっていたんですけど...
あさひ自身、送ったり送られたりしながら、そのまま仲間の...
「夜具なんかないけど、ごろ寝でよかったら」
「結構よ。じや、呼んで来るわね」
スーツ・ケースから浴衣をだすと、千代は伊達巻をひきずり...
なにかもめているらしく、だいぶ暇がかかったが、十分ほど...
「すみません。宝塚へ行こうと言ってるんだが、どうしてもい...
「いいのよ、おかまいできないけど」
近くの仕出し屋が冷しビールを持ってきた。
一時ごろまでしゃべって、座布団を枕にして思い思いにごろ...
「朝までマジマジしているんじゃ、たまらないわ。グリさん。...
若槻はボストン・バッグをひきよせて、ブロバリンの小瓶を...
「二錠くらいにしておけ。飲みすぎると、だるくて起きられや...
「わかってるわ……真山さん、どう? ありふれた薬だけど、眠...
「睡眠剤?……暑さがつづいたせいか、この二三日、眠ったよう...
あさひにとって、その夜は平凡な夜ではなかった。重苦しい...
あさひはだんだん不安になり、神経が緊張して、これ以上耐...
考えているうちに、痺れるような眠りのなかで夢を見た。その...
どれくらい時間が経ったかわからない。あさひの感覚にぼん...
半醒の混濁した意識の中で、たいへんなことになった、なん...
それなり深く眠りこんでしまい、はっきりと眼をさましたの...
そろそろと照りつけてきた、きびしい陽の色を浴びながら、...
「あれがほんとうの営みというものなんだわ」
クリンジング・クリームで顔の寝脂《ねあぶら》を拭きとり...
口惜しいような気がするが、といって不当に侵かされたとも...
千代は最終のフェリーボートで帰ってくるといっていたが、...
若槻と千代はあの日は洲本《すもと》の四洲園で一泊し、翌...
北川千代が宿帳にあさひの名をつかったことは、仲間のあい...
なにか、ひっかかりがくるのではないかと不安になりながら...
「真山あさひなんていう女は、無くなったって惜しいことはな...
部屋の隅に千代のスーツ・ケースが置かれてある。あの夜、...
北川千代……昭和五年生れ。本籍は江東区。祖母はフサ。父は...
履歴書の方は、深川第一小学校、日本高女の技芸科を二年。...
あさひは戸籍謄本と履歴書をもとのところへ戻すと、スーツ...
ぅことなのか、あさひは心の深いところでうすうす感じていた。
「真山あさひは千草の土の下へ入ってしまったんだから……」
なんのめんどうもなく北川千代という女に転身することがで...
「そうだったら、どんなにうれしいだろう」
しかし、これは過去に拭いがたい汚染をもっている人間の、...
[#ここから4字下げ]
三
[#ここで字下げ終わり]
フサの手をひいて銭湯から帰ると、あさひは奥の八畳へ手ば...
「疲れますからね……一時間ほど、床にお入ンなさるといいわ」
耳に口をつけてそういうと、フサは白髪頭をうごかして、そ...
こうなさいといえば、うむ、それがいいでしょうといえば、...
福々とした、おとなしやかな顔だちで、身だしなみがいい。...
はじめのうちは、罪の感じに追いたてられ、こんな善良な老...
フサは蒲団の端をさぐると、居なりのまま膝をまわし、裾も...
「おしも[#「しも」に傍点]はいいんですか。煙草も飴もここに...
「うむうむ」
笑皺《えみしわ》がおさまって静かな顔つきになったので、...
「いまでも、時々あなたの夢を見ることがあるのよ。遠いとこ...
「あたし、ここにいるじゃありませんの」
落着いて言いかえしたつもりだったが、動惇がして語尾が嗄...
「どこだかわからないけど、遠いところにいて、いつ逢えるだ...
屈託のない、おおまかなひとだが、鷹揚すぎて心の中を測り...
青山と麻布の高台に挟まれた谷底のような陰気な町筋を、一...
「家を探しているんですか」
「北川って家なんですけど」
「北川さんなら突当りです」
先に立って格子戸を開け、
「こんちは、北川さん」
と高っ調子をはりあげると、奥まったところから落着いた声...
「徳さんですか。勝手へ廻ってください」
「ここまで這いだしてくださいよ。お客さんです……若い女のひ...
「また担ぐんでしょう」
白髪をオールバックに撫でつけ、結城の裁着《たつつけ》の...
「失礼申しました……このひとたち、くだらないことをいって担...
「あのう、あたしは……」
あさひが挨拶しかけると、
「大きな声で飯嶋らないと、聞えやしねえよ。耳が遠いんだか...
御用聞きがそばで世話をやいた。
「大阪からまいりましたものですけど」
御用聞きは横合いからひったくって、
「あんた千代さんでしょう。おばあさん、毎日、首を長くして...
そういうと、おばあさんの耳に口をあてて、
「お待ちかねのひとが帰ってきたよ。びっくりさせようと思っ...
おばあさんは立身になると、両手を泳がせながら、
「あら、千代さんだったの……よく帰ってきておくれだっ
た。手紙が釆てから二十日にもなるのに、音沙汰がないもんだ...
御用聞きはスーツ・ケースをひったくって、あさひを二畳へ...
「家主《おおや》さんに、そう言ってくら」
むやみな声で呶鳴りながら露路を駆けだして行った。玄関の...
「ご大層な靴があるな。帰ったんだね」
といいながら五十二三の 赧ら顔の男が入ってきた。おばあ...
「金井さんですか。ご心配をかけましたが、千代が帰ってきま...
顔に手をあててさめざめと泣いた。
「よかった、よかった。これで、ご隠居さんも安心だな」
この家の玄関を入るとき、あさひは非情なほど冷静で、あっ...
「ただいま帰りました。祖母がいろいろとお世話になりまして…...
と、ひとりでに言葉が、辷りだしたが、その場の調子で、不...
最初の日は、大阪の話などしてお茶を濁した。日がたつにつ...
「夢の話はね、あとでゆっくり聞きます。血圧があがるといけ...
「そろそろ眠りかけている」
「嘘ばっかし。そばにいると、ご機嫌がよくなってだめなのね...
フサは眠るつもりになったらしく、うむとうなずいた。つく...
あさひは茶の間を通って勝手へ行った。水口が電路につづく...
あさひは、水口のガラス戸に凭れて、夕食のお菜はなににし...
[#ここから4字下げ]
四
[#ここで字下げ終わり]
玄関で声がするので出てみると、三十七八の削《そ》げたよ...
「北川千代さんというのは?」
「あたしです」
「赤坂署のものだが、手間をとらせないから、ちょっと署まで」
「眼の不自由な老人《としより》が寝て居りますのですが、こ...
私服は、いけぞんざいな口調になって、
「君のほうが、工合が悪いんじゃないのか」
と陰気な声でせせら笑った。その声のひびきの中から、破綻...
「警察から呼びに釆ましたから、行ってきます。あとのことは...
と、フサにいったが、返事がなかった。しばらくしてから、...
「何もかもすまして、きれいな身体になって帰ってきたのだと...
「それはなんのこと?」
「よしよし、早く帰ってきなさい。身体に気をつけてね」
警察へ行くと、すぐ二階の刑事部屋へ入れられた。狭いとこ...
永田という私服は奥まった机の前へあさひを連れて行くと、...
銀座のバアで女給をしていたことは千代から聞き、履歴書で...
「ございます」
永田は刑事たちのほうへ振返って、
「こいつに、まちがいはないんだね」
と念をおした。刑事たちがうなずくと、永田は物入れからペ...
「おばえがあるだろう」
手にとってみたが、おぼえなどなかった。
「ないわけはない。五年も六年もずらかっていやがって、よく...
調べ室へ連れられて行かれて、本式の取調べになった。
北川千代が「ベラミ」で女給をしているとき、末延薩夫とい...
「聴取書では、末延はお前が突き落したと証言しているんだぜ...
『このごろ、死ぬような気がして、不安でしようがないのよ。...
『おれはなかなか死にそうもないよ』
『たいへんな自信ね。ほんとうに死なない?』
『健康すぎて困っているくらいだ』
『あなたは死ぬわ。それも間もなく』
『どうしてだい!』
『あたしがあなたを殺すからよ』
そういって末延に猟銃をつきつけた。曳鉄《ひきがね》をひく...
母の前科と出生の秘密を消そうとして、傷害殺人の前科を背...
あさひの房は廊に近い奥の室で、四畳半ほどの広さの板敷に...
取調べのない日は、あさひは一日じゅう壁に向って坐ってい...
そのほうは耐えれば耐えられるが、かなわないのは房の中で...
翌日、永田は、いつもとちがう調子で絡みついてきた。
「白状さえすれば、おばあさんにも逢わせるし、差入れもゆる...
実家《さと》帰りはいいとしても、母子二代、刑務所の産室...
「大阪では、こういう家とこういう家に働いていましたから、...
翌日、永田が投げだすようにいった。
「どの家にも、真山あさひという女が働いていた事実はなかっ...
「それが北川千代です……働いていた事実がないとおっしいまし...
「お前は三十回以上も職を変えたそうだが、お前をひっぱって...
警察とのやりあいが、きまりのつかないうちに拘留満期とな...
「お前は北川フサのところでも、警察でも、北川千代と名乗っ...
「そうです」
「自分が北川千代であることを肯定しながら、北川千代の犯罪...
「そんなことがあったかもしれませんけど、それはあたしでは...
「真山あさひという女は、昭和五年の五月に栃木の女囚刑務所...
「だから、立証できる方法を考えていただきたいと申しあげて...
「警察から照会した原籍役場の回答では、北川千代は生存して...
「北川千代は淡路島で死にました」
「するとお前は、北川千代が死んだのを承知で、北川千代と名...
「一口には申しあげかねます」
「それはよろしい……北川フサは縁もゆかりもない赤の他人だと...
「北川フサはそんな事をいってるんですか」
「誰も強いたわけではない……お前は徹頭徹尾、なにもかも否定...
「お尋ねいたします。北川フサは、北川千代のことをどんなふ...
「ひとを殺せるような娘ではないから、なにかのはずみだった...
「一日も早く、帰ってほしいといったのですね」
自分の帰りを待っていてくれるひとがいる。あさひの幸福は...
「お手数をかけました……あたしは北川千代でございます。公訴...
真山あさひの北川千代は、現在までに刑の三分の二を終えた...
真山あさひの娘は、二十九年の六月まで所内の乳児室にいた...
最近の手紙には、こんなことが書いてあった。
この三年の間に、所内でいろいろと勉強させていただいたの...
私としましては、子供に別れたくないのですが、娘が結婚す...
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