一口に異常とか倒錯とかいうけれども、セックスの領域で、正常と異常、健
康と病気の区別くらい、明確にするのに困難なものはない。最近の性科学者の
なかには、「倒錯」という言葉を使うのを慎重に避けている者もいるくらいで
ある。
 肉体的な病気なら、話は簡単なのである。つまり、痛みがあるとか、ある特
定の器官の能力が衰えて、使いものにならなくなったとかいった場合には、は
っきり病気だと認定して差支えないわけである。ところが、セックスの場合は、
そう簡単にはいかない。病気とか倒錯とかいったって、要するに、それは趣味
の問題[趣味〜問題まで傍点]にすぎないからである。
 たとえは、女の下着をあつめて喜ぶフェティシストがいたとする。もちろん、
下着を盗めば犯罪であるが、ただ下着をあつめて、アパートの自分の部屋で、
こっそり眺めて楽しんでいる分には、この男の行動には、社会に害悪を及ばす
ようなところは全くないわけである。いったい、この男の性欲を」病的とか倒
錯とか呼んで、矯正しなければならない理由があるだろうか。
 いわゆる性的倒錯と呼ばれているもののなかには、スコプトフィリア(覗見
症)とかエギジビショニズム (露出症)とかいったものも含まれるが、私たち
は、ほかならぬ私たち自身の経験に照らしてみて、健康な普通の男性が、すべ
て多かれ少なかれ、こういった欲望をもっていることを知っているのである。
エスカレーターや歩道橋の下から、ミニスカートの女性の下着を眺めたって、
べつに誰の迷惑になるわけのものでもなし、そういう行為は、いわば社会的に
大目に見られているのである。わざわざのぞいて見れば軽犯罪だが、見えてし
まうものは仕方がない。「眼の保養」などという言葉もあるくらいである。
 どんなに異常な、どんなに残虐な、どんなにグロテスクな性的欲望でも、私
たちが頭のなかで空想するだけなら自由だし、想像力のはたらきによって、私
たちが理解し得ないような、いわゆる性的倒錯なるものは、一つもないのでは
ないかとさえ私は思う。サディズム、マゾヒズムは申すまでもなく、ネクロフ
ィリア(屍体愛好)だって、ゾーエラスティア(獣姦)だって、コプロラグニ
ア(糞便嗜好)だって、決して私たちの想像を絶した世界の出来事ではないは
ずだ。私たちは、一歩間違えば誰でも犯罪者になる可能性があるのと同じよう
に、一歩間違えば誰でも「性的倒錯者」になる可能性がある、と考えるべきだ
ろう。
 最近の新聞によると、アメリカで、ホモセクシュアルの男女がプラカードに
「われわれの権利を認めよ」と大善して、デモ行進をやったそうであるが、清
教徒的倫理観の支配的であった昔ならば、とても考えられなかったことである。
これには社会情勢の変化も関係していようが、また今世紀における心理学や性
科学の飛羅的な発達も、無関係ではあるまい。スエーデンのラルス・ウレルス
タム博士のように、「あらゆる性倒錯という偏見を打破せよ。性犯罪に関する
法律をさらに緩和せよ」と叫ぶ学者も出てきていをくらいなのだ。
 要するに、性の世界における異常と正常、病気と健康のあいだに、はっきり
した境界線を引くことは不可能なのである。性的倒錯の世界は、私たちに縁の
ない別世界ではなく、私たちのすぐ隣の[すぐ〜隣のまで傍点]世界なのだ。性的倒錯者は、たぶん、アパートの隣の部屋の住人なのだ。つまり、性欲とは本質的に倒錯をめざすも
のである、ということを頭に入れておいていただいて、私は今後、この「倒
錯」という言葉を便宜的に使っていこうと思うのである。
 以前、新聞の三面記事に小さく出ていた、きわめて興味ぶかい事件があった
のを思い出す。ある若い自衛隊員が、深夜、ひとりで首吊り遊びをやっている
ぅちに、誤って本当に首が締って、死にそうになっているところを助けられた
という事件である。その男の告白によると、映画を見て、まねしてやってみた
くなったのだそうである。この新聞記事を読んだ私たちは、ほとんど直観的に、
この奇妙な事件のマゾヒスティックな臭い(男が自衛隊員であったとは、じつ
に象徴的ではないか!)を嗅ぎつけたのであるが、世間には、それほど評判に
ならなかったようである。たぶん、首を吊っていた本人も、自分のマゾヒステ
ィックな性格を意識してはいなかったであろう。自分でも気がつかない性的倒
錯者がふえてきているのが、現代の欲求不満だらけの大衆社会の特徴ではなか
ろうか、と私は考える。
 こんな例は、めったにあるものではなかろうが、一般に新聞の報道が自殺と
して片づけている事件のなかにも、よくよく注意してしらべてみると、なにか
倒錯的な、疑わしい点があるのに気がつくことがあるものである。この首吊り
自衛隊員の場合によく似た例が、ごく最近のアメリカの新聞にも報道された。
 アメリカの西部のある町で、ひとりの少年が、オートバイ乗りのサングラス
をかけ、犬の首輪をぴっちり首にはめて、全裸で死んでいるという事件だった。
この場合も、明らかに首吊り遊びのヴァリエーションであるにちがいない。さ
らにここには、サングラスとか革の首輪とかいった、奇妙な小道具によって暗
示されるフェティシズムの要素が混っていることふ、容易に読み取れるだろう。
ちなみに、有名な阿部定事件も、男女が肉体交渉の最中、ふざけて首を絞めた
り離したりしているうちに、誤って本当に殺してしまったという事件であった。
 ついでにもうひとつ、マゾヒストの首吊り事件の古典的な例をご紹介してお
こう。
 フランス王家と関係のふかい大貴族で、「最後のコンデ公」と呼ばれたル
イ・ド・ブルボンが、一八三〇年夏のある朝、サン・ルーの城の一室で、窓の
掛金にぶら下がって、全裸で死んでいるところを発見されたという事件である。
死んだとき、この大貴族は七十歳の老齢であった。彼には、イギリスから連れ
てきて、自分の家臣であるフシェール男爵と結婚させていた、ソフィーという
若い愛人があり、彼女も事件に関係があるのではないかと疑われたが、王家の
命令により、このスキャンダルは揉み消されてしまった。しかし、世間のもっ
ばらの噂では、この老人は札つきのマゾヒストだったのである。若い頃は喧嘩
早くて有名で、フランス革命のときには、亡命貴族の軍隊を指揮して戦ったこ
ともある男だった。
 マゾヒズムとはかなり趣が違うけれども、あの有名なフランスの大女優、サ
ラ.ベルナールの奇怪な趣味について、次にご紹介しよう。これはネクロフィ
リア(屍体愛好)とフェティシズムとの結びついたもので、やはり性的倒錯の
臭いが濃厚である。
 サラ・ベルナールの私生活を暴露した、彼女の同僚の女優マリー・コロンビ
エの語るところによると、この大女優は、葬式や屍体に関係あるものが大好き
で、パリの医学校の付近をしらみつぷしに歩きまわって、一ダースはかりの人
間の頭蓋骨を手に入れ、これを自分の部屋に飾っておいたという。そればかり
ではなく、わざわざ葬儀屋に注文して、内部に繹子の布地を張った、黒檀と銀
の豪著な棺をつくらせて、自分がそのなかに入り、死んだつもりになっている
のを好んだという。
 初めてサラが棺のなかに横たわって、男友達を自宅に呼んだとき、何にも知
らずに呼ばれてきた連中は、ぎょっとして戸口に立ちすくんでしまった。部屋
は薄暗く、蝋燭の明りがついていて、棺のなかをのぞくと、黒い嬬子のクッシ
ョンの上に、真白な着物を着たサラが、かたく目をつぶり、身動きもせず、ま
るで本当の死人のように蒼白な顔をして、横たわっているのである。女優だか
ら、メイキャップはお手のものだ。
 こうして、しばらくすると、サラは復活したラザロのように、棺のなかから
立ちあがり、恐怖の表情を浮べて見守っている男たちを眺めて、ぷっと吹き出
すのだった。それから、「誰かあたしと一緒に、この棺のなかで寝てみたい人
はいない?」と男友達に誘いかけるのだったが、さすがに誰も、すすんで寝よ
うと言い出す者はいなかった。すると彼女は、大いにお冠りで、「それじゃ、
あんた方はもう、あたしを愛していないのね?」と言い出す始末。ようやく最
後に、勇気のある男が、彼女と一緒に棺のなかに入ってはみたものの、この新
趣向のベッドでは、彼の欲望の焔はそれほど激しく燃えるわけにはいかなかっ
たという話である。
 およそ性的倒錯のなかでも、フェティシズムくらい、広範な領域をふくむも
のはあるまい。サラ・ベルナールの場合は、ネクロ・フェティシズム (死に関
係のある表象や物体を愛すること)の極端な一例であろうが、そもそもこのフ
エティシズムには、肉体の一部や衣服や臭いのような、少なくとも人間の肉体
に関係のあるものを愛好することから始まって、機械や物体のような非人格的
な無機物、あるいはそれらの観念を愛好することまで、じつに多くの領域を包
含しているのである。毛皮が好きな人もあれば、ゴムが好きな人もあり、革が
好きな人もあれば、ガラス (たとえは医療器械)や鋼鉄(たとえば鎖)が好き
な人もある。どんなものにでも、電気のように、性的欲望は充電するのである。
 病理学的なフェティッシュとして、潅腸器を好む人がもっとも多いのは、た
ぷん、この医療器具が幼児期の体験と密接に結びついているためであろう。し
かしクリフォード・アレンの報告している例は、もっと面白い。つまり、その
男は、ゴム製品のフェティシストで、薬屋から薬屋へと歩きまわって、美人の
店員から、赤ん坊に吸わせるゴムの乳首を買うのが何よりの快楽だというので
ある。要するに、乳房コンプレックスの変形で、この幼児性格的な男は、薬局
の女店員から、ゴムの乳首を自分の口のなかへ入れてもらうという、甘美な幻
想をいだいていたのであろう。
 ぴかぴか光った鋼鉄の剣や武器も、サディストやマゾヒストのフェティッシ
ュになりやすいが、元来、フェティシストは物体そのものを愛するので、血を
見るところまでは進まないのが通例であるようだ。それでも、ガルニュ教授が
報告している、フランスの青年ウージェーヌ某の話は、奇怪なアントロポファ
ジー(人肉嗜食)の欲望とマゾヒズムの自己破壊の欲望とが結びついた、いか
なる倒錯の範疇に分類してよいか迷ってしまうような、ふしぎな例である。
 一八九一年、パリのおまわりさんが、公園のベンチにすわっている、日雇い
労務者凰の若い男を見つけて、近づいてみると、あっと驚いた。何と、この青
年は鋏で自分の左腕の肉を切り取って、陶然たる面持で、その血まみれの肉片
をむしゃむしゃ食っていたのである。
 まあ、自分で自分の肉を食うのだから、べつに犯罪というわけでもなく、本
人の勝手といえば勝手かもしれないが、しかし異常な事件であることに変りは
あるまい。
 警察へ連れてきて、事情をきいてみると、この青年の頭のなかには、十三歳
当時の少年の頃から、奇妙な固定観念のような甘美な妄想がこびりついている
のだった。つまり、彼は色の白い肌のきれいな若い娘を見ると、その娘の肌の
一部分を噛み切って、食いたくてたまらなくなるのだそうである。いわば白い
肌が彼のフェティッシュだったわけだ。そこで、刃物屋で大きな鋏を買ってき
て、街をうろつき、自分の理想の娘を物色していたが、なかなかチャンスがな
い。とうとう歩き疲れて、公園のベンチにすわり、自分の腕のいちばん柔らか
そうな、いちばん白い部分を鋏で切り取って、これを頭のなかで娘の肉だと空
想して、食うことを思いつき、実行していたのだという。まったく驚き入った
男である。
 自己破壊の欲望は、フロイトのいわゆる道徳的マゾヒズム、つまり何らかの
無意識的な罪悪感をもっている人間が、罰への欲求によって動かされるところ
のマゾヒズムであるが、この青年の場合には、どうやらこの定義は当てはまら
ないようである。むしろサディズムとフェティシズムが、屈折して自己自身へ
向った場合と見るべきだろう。
 クラフト・エビング以来、性科学者によって分類されてきた性倒錯のうち、
今まで名前を挙げなかったものには、オナニズム、同性愛、トランスヴェステ
ィズム (衣裳交換)、ペドフィリア (少年愛)、ジェロントフィリア (老人愛)、
ピグマリオニズム (偶像愛)、ウロラグニア (放尿と結びついた性的満足)、コ
プロラグニア (排泄物と結びついた性的満足)、クレプトラグニア (窃盗行為
と結びついた性的満足)、オスフレジオラグニア (体臭によって誘発される性
的満足)、ピロラグニア (放火によって惹起される性的満足)、クンニリングス
(口と女性性器との接触)、フェラチオ (口と男性性器との接触)などの用語で
呼ばれているものがある。
 これらのうち、同性愛やサド・マゾヒズムについては、すでに多くのことが
語りつくされているように思われるので、私は、とくに私の関心をひく、ひと
りの変ったネクロフィル (屍体愛好者) の例をお話したいと思う。
 それはフランスのアレクシス・エポラール博士によってくわしく報告された、
ヴィクトル・アルディッソンという驚くべき男の場合である。アルディッソン
は新聞で「ミュイの吸血鬼」と呼ばれ、ピエルフウの精神病院に監禁された、
墓あばきの常習犯であったが、すこぶるおとなしい男で、医者の質問にもよく
答えたので、医者たちも彼には好感をもっていたらしい。
 三歳の幼女から六十歳の老婆までの女の屍体を発掘し、しばしば屍体を家ま
で運んできたが、直接的にも間接的にも、これに性的な凌辱を加えたことは一
度もなかった。十三歳の少女のミイラ化した首を、彼は非常に大事にしていて、
これを自分の「許嫁《いいなずけ》」と呼び、十字架だとか、天使の像だとか、ミサの本だと
か、蝋燭だとかいった奇妙な収集品のなかに加えて保存していたのである。
 警官に発見されたとき、彼の家の納屋の藁の上には、いちばん最近家に連れ
てきた三歳の幼児の屍体が、半ば腐りかけて置いてあったが、その頭には、古
い帽子がかぷせてあったという。ちょっと、ほほえましいような話ではないだ
ろうか。
 アルディッソンの職業は墓掘り人足であったから、屍体を手に入れるには都
合がよかったわけである。ありとあらゆる階層、ありとあらゆる年齢層の女を
彼は自分のものにした。といっても、前にも書いたように、性器による接触は
まったく行わず、ただ、ときどき愛撫するだけであった。「三歳から六十歳ま
で、どんな女でも自分は満足だった」とみずから語っている。
 ところで、おもしろいのは、たった一度だけ、彼が掘り出した屍体を、また
棄ててしまったことがあった。その屍体には、脚が一本しかなかったからであ
る。少女のふくらはぎが、彼にはいちばん魅力だったのだ。ほっそりした少女
の脚が、いわばアル・ディッソンのフェティッシュだったわけであり、その点で、
彼の美学は、あの『ロリータ』の作者のそれと同じだったのである。夢のなか
で、ふくらはぎの美しい少女が自分のまわりを飛びまわっている幻想を、しば
しば彼は見たという。
 たしかにアルディッソンは知能が低く、字も満足に書けないような男だった
が、一日中、熱心にジュール・ヴエルヌの冒険小説を読んだり、クラシック音
楽に耳を傾けていたりしたというから、また一風変った趣味の男だったわけで
ある。納屋のなかで、少女の屍体を相手に、彼はいろんなことを話しかけてい
た。
 犯罪史上に名高いネクロフィルには、墓場から屍体をあばき、これを凌した
ばかりでなく、ばらばらに寸断したというベルトラン軍曹など、明らかなネク
ロ・サディズムの傾向を示す者が多いように思えるが、このアルディッソンの
場合だけは特別で、なにかひどく幼児的であり、あたかもエドガー・アラン・
ポーのノスタルジアを稚拙に模倣したかのごとき印象をあたえる。私がとりわ
け興味をひかれる所以である。


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Last-modified: 2006-08-19 (土) 10:56:18