ヨーロッパの十八世紀という時代は、まことにおもしろい時代である。一方には、フランス革命を準備した啓蒙思想家がいたかと思うと、もう一方には、サドやカザノヴァのようなエロティシズムの実践家がいた。山師、ほら吹き、詐欺師のような男が悠々と宮廷に出入りしていたかと思うと、フリー・メーソンのような秘密結社に属する怪しげな政治運動家も、諸国をうろつきまわっていた。革命という一大爆発を目前にひかえて、全ヨーロッパが坩堝《るつぼ》のように煮えたぎっていたわけである。
 ヨーロッパの上流社会を股にかけて、多くの貴族や民衆を煙に巻いていた怪人物、錬金術師として有名なカリオストロ伯爵も、こんな時代に生きていた男である。この男の名声については、ゲーテやカザノヴァも触れているくらいで、まあ、奇人中の奇人と言ってよいだろう。みずから伯爵と称してはいるものの、じつはこの男、本名をジュゼッペ・バルサモというパレルモ生まれのイタリア人で、ごく身分の低い家柄の出だったらしい。親爺は本屋だったという。しかし本人の言によれば、母親の先祖ほ貴族だったそうで、カリオストロという奇妙な名前はそこから取った。
 最初、パレルモの神学校に入って僧侶になり、修道院で医術や治療の勉強をして、教団の慈善病院の看護人となった彼は、やがて何かの理由で修道院を追われ、画家になる決心をして、諸国を放浪して歩いた。ずいぶん放蕩もしたようである。しかしこの放浪時代に、錬金術、占星術、カバラ、魔術などといった秘密の学問をみっちり修め、また医者としての腕をみがいた。怪しげな「若返りの水」と称するものを売って、生活の資にしていた。(この「若返りの水」というのは、十九世紀の魔術師エリファス・レヴィの説によると、「老人に青春の精力をただちに取りもどさせる、一種の生命の霊薬」であって、ギリシア産の甘味葡萄酒に、ある種の動物の精液と、孟の植物の汁液とを蒸溜して混ぜたものだという。レヴィはその処方を知っているが、自分は秘密にしておく、と言っている。)
 ローマで十五歳の若い娘を誘惑して、とうとう彼女と結嬉したが、このロレンツァという女は非常に美人で、頭もよく、夫の旅行にいつもついて歩いた。夫の詐欺の共犯者にもなり、夫は金に困ると、この若い妻に売春までさせたというから、まことに似合いの、したたか者の夫婦というべきである。
 そのころ、やはり諸国を放浪していた色事師のカザノヴァが、南アランスのエクス・アン・プロヴァンスという町の東館で、偶然、この若き日のカリオストロ夫妻に会っている。有名なカザノヴァの『回想録』によれば、そのときカリオストロ夫妻は巡礼者の服装で、手に杖をもち、鍔《つぱ》のひろい帽子をかぶっていた。夫は二十五歳くらい、美しい妻はまだ十八にもならないくらいで、いかにも貧しげな様子であったが、しかし仲睦まじげであったという。カザノヴァは二人に興味をおぼえ、夕食に招待して、いくらか金も恵んでやった。−やがて十年以上もたってから、カザノヴァは「あれが有名なカリオストロだったのか」と、当時の若い二人の姿を懐かしく想い出すのである。
 ローマ、マドリッド、ロンドン、ブリュッセル、パリ、ナポリから東方諸国まで、さらに表してロシアの首都ペテルブルグまで、カリオストロ夫妻の足跡の及はなかった地方とてはなく、しかも行く先々でスキャンダルや投獄の憂き目にあい、王侯のような豪著な生活をしたり、あるいは一転して乞食のようなどん底生活におちいったり、まるで冒険小説を地でゆく波瀾万丈の一生であった。
 しかし、そのあいだに、錬金術師カリオストロの評判は大きくふくれあがり、彼の名前は神秘の雲につつまれ、彼の奇蹟の能力や、病気を治療するふしぎな力を信じる人々の数も、だんだん増していった。実際、彼はいろんな種類の奇蹟を実現して見せたのである。


 ブリュッセルでは、黄金やダイヤモンドや真珠や水銀を製造し、麻の布を絹に変えたという。子供を催眠術で眠らせ、夢遊病者のように喋らせたともいう。フランスのクールランド公爵は、彼の手にかかって一種の全身硬直症《カタレプシー》の状態に落ちこんだ。ペテルブルグでは、彼はストロゴノフ男爵夫人の神経病を治し、裁判官イワン・イスレニエフの癌を治し、イエラギン将軍のために錬金術の秘法を公開した。ロシア皇后の侍医が手遅れだとして見放した患者を、彼はきとに立ち直らせた。そのため名誉を傷つけられた医者と決闘する騒ぎになり、彼はロシアを去るのである。
 一七七七年、イギリスのフリー・メーソンの会員となったカリオストロは、全ヨーロッパに支部をもつこの秘密結社の内部でも、次第に重きをなす人物となった。ベルリンで国王フリードリヒ二世に手厚く迎えられたのは、この国王がやはりメーソン会員だったからである。フランス革命に参加した進歩的な貴族の多くが、当時、フリー・メーソンに属していたことはよく知られている。やがて一七八五年、パリにやってくると、カリオストロ夫妻はサン・クロード街のサヴィニー館に堂々たる居を構え、エジプトの伝統的な古式に則って、みずから新らしいフリー・メーソンの一派を組織した。カリオストロ夫人ロレン
ツァは、女性のための結社をつくって、夫と協力した。
 パリの最高の貴族や貴婦人たちが、カリオストロ夫妻の邸宅へぞくぞく詰めかけるようになった。きらびやかな祭司の服装で、主人夫妻は客を迎え入れ、おごそかな儀式を執行したり、夜食会を司会したりした。夜食会には、当時の第一級の哲学者や聖職者も出席した。ある晩のごときは、招待客は六人しかなかったのに、十二人分の席が用意された。ディドロ、ヴォルテールなど、もうすでに死んでいるはずの学者たちの席である。カリオストロは、これらの死者たちとも自由に談話を交わすことができるのだった。
 しかし彼の人気は、ただ貴族階級のあいだだけに限られていたわけでは決してない。彼は貧乏人の面倒をよく見、貧民窟をまわって治療して歩いた。だから一般庶民のあいだでも、彼の人気は絶大で、彼が間違った嫌疑で留置されていたパスティーユ監獄から釈放された時などは、一万人のパリ人が彼をかつぎ上げて、意気揚々と市衝を練り歩き、その翌日は、彼の住んでいた家の前に、カリオストロを歓呼する群衆がひしめき集まった。暴動が起るのではないかと案じて、政府はこの予言者に、八日以内にパリを立ち去るよう命じなければならなかったほどである。
 カリオストロのふしぎな予言のなかでも、いちはん世に知られているのは、彼がストラスプールにいた当時、遠く離れた場所における皇太子の誕生をずはりと言い当てた予言であろう。妊娠中の王妃マリー・アントワネットはヴェルサイユ宮穀にいたわけだから、彼は王妃に会ってさえいないのである。 事の次第をややくわしく述べれば、−妊娠中の王妃がおそろしい夢をしきりに見るので、心配になって、親友のド・ラ・モット伯爵夫人を使者に立て、無事に安産できるかどうか、名高いカリオストロに未来を占ってもらおうとした。カリオストロは快く承知した。まず若い無垢な処女を催眠状態におちいらせて、テープルのそばへ連れてゆく。テープルの上には、透明な水のはいったクリスタル・ガラスの瓶が塵いてあり、その両側には赤々と燃える松明《たいまつ》が立てられている。処女は瓶をじっと見つめる。「何が見えたか、言ってごらん」とカリオストロが命じる。娘は、王妃が男の子を生んでいる光景をはっきり見たのであった。この予言はぴたりと適中して、王妃マリー・アントワネットは、数週間後に、ヴェルサイユ宮殿で、無事に男の子を生み落したのである。
 ルイ王朝の権威を揺るがし、大革命の序曲となったと言われている例の「首飾り事件」に、不幸にもカリオストロが捲きこまれたのは、一七八五年のことである。この複雑な事件の経過は、煩わしいから省略するけれども、カリオストロがそのためにパスティーユ監獄に拘留され、その挙句、まるで英雄のように、そこから出てきたことは前に述べた通りである。しかし宮廷人の嫉妬や非難や中傷は、相変らず、この得体の知れぬ怪人物の上に集まり、ために彼はロンドンに亡命しなければならなくなる。が、やがてロンドンにも居たたまれなくなり、今度はスイスのパーゼルに落ちのびる。どうやら「首飾り事件」を境
として、彼の運勢は下り坂になるようである。


 一七八九年、カリオストロは故郷のイタリアヘ帰り、ローマに落ちつく。すると、そこに、待っていたように不幸が持ちあがる。今まで彼の忠実な伴侶であった妻のロレンツァが、彼を裏切り、その筋に訴え出て、彼の身分を暴露してしまったのである。ローマ教皇庁の裁判所も、彼の身分に疑いをいだく。伯爵を名のり、民衆に畏敬され、諸国の宮廷に自由に出入りしていた高名な予言者は、じつは詐欺や文書偽造の前科のある、パレルモ生まれの一平民にすぎなかった!
 カリオストロは逮捕され、ローマのサン・タンジェロ城塞に幽閉される。
 家宅捜索が行われ、彼の書いたものが発見されると、この怪しい予言者の危険思想は、いよいよ動かしがたいものとなった。彼は紙の上に、はっきり次のように書いていたのである、「ピオ六世は最後の法王となるであろう。ルイ十六世は最後の王となるであろう。フランス革命は予想以上に流血の惨事となるであろう」と。
 一七九一年、異端審問法廷が開かれ、彼は三つの罪状によって死刑を宣告される。すなわち、その一は、ローマ法王によって告発されたフリー・メーソン会員に属していること、その二は、異端的な言説を発表していること、その三は、普通法を犯していること、であった。また彼は、ブルポン王朝やヨーロッパの諸王家を覆滅せんとする、危険な国際的陰謀にも加担していると睨まれた。中世のファウスト博士のように、悪魔と契約しているとも噂された。
 革命的国際陰謀団などと言うと、まるで近ごろの通俗読物のようで、眉つば物と思われる読者がおられるかもしれないが、事実、当時のヨーロッパには、そのような秘密結社がたくさんあったのである。古い伝統を誇る薔薇十字団なども、その一つであろう。
 やがて減刑されて、カリオストロは死刑を免れ、終身禁錮刑になり、一七九五年八月二十三日、獄中で飢え死した。噂によると、それは見るも無残な最期で、おそろしい痙攣とともに狂乱状態になり、激しい言葉でローマ法王を呪いながら息たえたという。しかし彼の弟子たちは、この無残な断末魔に関する噂を否定し、彼は旧約の予言者エリアのように、火の車に乗って天国へのぼったのだ、と主張している。享年五十一である。
 彼が死んでからのちも、彼の姿を確かに見たという風説は、しばしば多くの者の口から発せられている。文学作品のなかに、これほど頻々と登場する人物もめずらしく、シラーやゲーテやネルヴァルや、さらに音楽家シュトラウスのオペレッタなどでも取り扱われている。モーリス・ルブランの探偵小説に『カリオストロの復讐』というのもある。


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Last-modified: 2008-03-15 (土) 22:21:55