大革命の嵐の前の、遊惰な気風のみなぎったパリの街角に、誰が作ったとも分らぬ、奇妙な流行歌のような歌の文句が流れた。

シュヴァリエ・デオンの

性器《セックス》は魔討不思議

てっきり男だと思ったのに

イギリスでは女だという評判

バルナバ親爺の

撞木杖もないという

 このあと第二節、第三節がえんえんと続くが、かなり卑猥にわたる歌の文句の紹介は、このへんでやめておこう。じつは、この歌に歌われている騎士《シュヴアリエ》デオンという男が、これからお話しようという十八世紀フランスの奇人中の奇人、女装をした外交官なのである。
 すでに生きているうちから、この男のまわりには、もうもうたる伝説の雲が立ちこめ、あるいは「スカートをはいたドン・ファン」などと悪口を言われたり、あるいは「性《セックス》のない人」などと軽蔑されたりした。しかし彼は有能な外交官で、モスコウやロンドンの宮廷で華々しい活躍をしたばかりか、多数の文学作品をも残した。また、当時の並びなきフェンシングの達人でもあり、竜騎兵大尉として戦争に出たことさえあった。こんな男らしい男が、どうしてまた、生涯のある時期、ずっと女装を通していたのであろうか。


 シャルル・ジュヌヴィエーヴ・ルイ・オーギュスト・アンドレ・ティモテ・ド・ボーモンは、一七二八年、ブルゴーニュ地方のトネールという町で生まれた。えらく長ったらしい名前だが、これが後の騎士デオンである。一説によると、彼は正真正銘の女として生まれたが、死んだ叔父の遺産を相続させたいばっかりに、両親が無理やり赤んぼうを男として育ててしまったという。そんな具合に、デオンは大へんな美少年であったらしい。
 長ずるに及び、パリの社交界に進出し、文学者や詩人たちと交際し、自分でも作品を書いた。のちに彼自身の残した回想録によると、この頃、彼はロシュフォール伯爵夫人という女と親しくしていたが、彼女は、自分の衣裳箪笥の中から選んだ豪華な服をデオンに着せて、宮廷の舞踏会に連れて行くのを楽しみにしていたという。デオンも、こうして自分がすっかり女になり切り、社交界の紳士淑女の注目の的になることに、ぞくぞくするような、えも言えぬ快感を味わっていた。
 歌劇『フィガロの結婚』のケルビーノのような、この女装した美少年の艶姿《あですがた》に、フランス国王ルイ十五世がぞっこん惚れてしまい、彼を寝室に誘いこんだというような噂もあるが、これはどうやら嘘らしい。国王のまわりには、ポンパドゥール夫人の目が光っていて、まず浮気なんか出来っこない状態だったからである。しかし、ルイ十五世が彼に目をつけたというのほ、事実である。国王は、この女装の天才を利用して、ある外交上の秘密の任務に当らせようと考えたのである。
 当時のヨーロッパの情勢は混沌としていて、ブルボン王朝は、複雑な問題をかかえこんでいた。どこの国の宮廷にも、スパイや密使がさかんに暗躍していた時代であった。騎士デオンほ一七五五年、二十七歳当時、フランス政府の密使ダグラスとともにロシアに渡ったが、このとき、彼は完全に女装していて、ダグラスの姪のリア・ド・ボーモン嬢と名乗っていた。その頃のロシアでは、ピョートル大帝の娘のエリザべータ女帝が絶対権力をふるっていたが、このボーモン嬢(すなわちデオン)は、たくみに取り入って女帝に近づき、女帝の信任を得、ついに女帝の側近にはべる読書係の役目になったというから、大した凄腕である。
 女装していたればこそ、ひとびとは彼を女だと信じて、油断もしたわけである。じつは、騎士デオンはルイ十五世のスパイで、ロシア政府に関する情報をヴェルサイユ宮殿に送るべく、秘密の任務をおびていたのである。このことは、一部の者を除いては、フランス政府の首脳部すらも知らなかった。デオンは国王に直属した、いわば国王の個人的なスパイだったのであろう。
 彼が二度目にロシアに渡った時には、べつに女装したりせず、普通の男のすがたであった。今度はダグラスも公使という資格であり、デオンも公使秘書という正式の資格で、この前の施行の際にダグラスが同伴した姪のボーモン嬢は、自分の妹ということにしておいた。しかしモスコウのひとびとは、この兄がボーモン嬢とあまりに瓜二つなので、びっくり仰天したそうである。それも当然であったろう。なにしろ同一人物なのだから。


 やがて彼は健康上の理由で、寒い北国のロシアを去り、軍隊に入って七年戦役に参加し、武勲を立てて竜騎兵大尉となった。そして一七六二年、今度はフランス国王の全権公使として、ロンドンのジョージ三世の宮廷に向かったのである。騎士デオンの外交官としての手腕は、目ざましいものがあったらしく、フランスとロシア、あるいはフランスと英国とのあいだに、幾つかの重要な条約を結んでいるほどであるが、ロンドンの社交界でも、やはり彼はしばしば女装をして、ひとびとを驚かしては楽しんでいた模様である。彼のロンドン生活は贅沢をきわめ、その自宅で催された大園遊会は、宮廷のそれにも匹敵するといわれた。彼の没落と、国王に対する失寵の原因は、まずこの浪費ぶりにあった。


 デオンには、先天的な性格上の欠点ともいうべき、ほら吹きとか、傲慢とか、短気とか、病的な見栄っばりとかいった点が目立ったのである。国王や政府は、次第に彼を厄介視するようになった。しかし長年にわたるスパイ生活のおかげで、彼ほルイ十五世の署名のある、重要な機密文書をいっぱい持っているのであった。下手に彼を怒らせては、事が面倒である。そこでフランス政府は、仕方なく彼に法外な金をあたえて、ロンドンで気ままに遊ばせておくよりほかなかった。


 ところで、ここに奇怪な事実が存在するのである。すなわち、騎士デオンがようやく許されて、ドーヴァー海峡を渡ってフランスの土を踏めるようになったとき、彼は帰国の条件と引き換えに、今後死ぬまで、絶対に女装をしていなければいけない、と申し渡されたのである。いったい、どうしてこんな奇怪な命令が、フランス王の名によって発せられたのであろうか。
 一説によると、これにはイギリス王妃ソフィア・シャルロットが関係しているという。かつてロシア旅行の折、騎士デオンはドイツのザクセン地方で、メクレンブルグ公爵の邸に逗留したことがあったが、その公爵家の令嬢が、現在のイギリス王ジョージ三世の妃だった。旧知の二人は、ロンドンで急速に親しくなり、ある晩、一緒にベッドに入っているところを王に発見された。?こんなスキャンダルがあったので、フランス政府としてはイギリス王を安心させるためのアリバイを作る必要に迫られた。つまり、つねづね女の服装をして人目を惹いていた騎士が、じつは本物の女であったということにしてしまえば、イギリス王もコキュ(寝取られ男)の不名誉から免れられるわけである。それで、フランス本国への帰還に際して、彼を無理やり女に仕立てあげてしまった、という次第である。
 しかし、この説は眉唾ものであろう。その理由は、第一に、イギリス王が妻の不義の現場を見つけたら、ただちに妻のベッドを汚した男の首を刎《は》ねてしまうはずだからである。第二に、騎士デオンという男ほ、「スカートをはいたドン・ファン」などと渾名され、その女装癖を女に近づくための手段と疑われたけれども、じつは、女には全く興味のない男だったと信じられるからである。ロシア宮廷でも、彼は貴族の女たちにちやほやされたが、浮いた噂一つなかった。


 デオンを女と信じ切っている人間も、たくさんいた。マリー・アントワネットも、ルイ十六世も、彼を女にちがいないと思っていたから、ルイ十五世のように、もう彼に秘密の使命などあたえようとはしなかった。ただ、彼の保管している昔の機密文書だけが、当局者にとって悩みの種だった。向う見ずなデオンは、この機密文書を抵当《かた》にして、多額の借金までしていたのである。


 当局者の命を受けて、この機密文書を彼の手から取り返し、交換条件として、フラン本国に帰ることを許可する約束を彼にあたえたのは、みずから英国に赴いて、この任に当った劇作家のボーマルシェである。有名な口八丁手八丁の男である。そのとき、死ぬまで女装して暮すべし、という一件も彼によって強引に承認させられた。たぶん、ボーマルシェは賭けをしていたのである。当時、騎士デオンが果して男であるか女であるかをめぐつて、ロンドンやパリで、まるで競馬のような賭けが行われていたらしい。暇な人間もいたものである。騎士を無理やり女にしてしまうことで、利益を得る人間がいたらしいのである。考えられないような奇怪な話であるが、こうして彼は、国王および民衆の希望によって、女にさせられて[#「女〜て」傍点]しまったのだ。
 最初はみずから好んで、自分のまわりに伝説を築きあげてきた彼も、こうなると、犠牲者だった。彼は、自分でつくった罠に落ちこみ、自分でつくった伝説にとらえられてしまった。「嘘から出た真《まこと》」とは、このことであろう。彼はボーマルシェを怨んだが、どうすることもできなかった。
 フランスへ帰ると、デオンはまさにスター並みだった。街を歩けば、物見高い連中がわっと集まり、彼を諷した卑猥な小唄が、ロからロヘ伝えられた。半ば男で半ば女の、漫画みたいな肖像画も描かれた。彼の一代記は尾鰭《おひれ》がついて、ふくれあがった。物笑いの種ではあったが、同時に、みんなが彼の友達になりたがった。文壇の長老ヴォルテールも、死ぬ直前、自宅へ彼を招いた。彼の性《セックス》の神秘をめぐって、相変らず賭けが行われ、当局は、この馬鹿げた賭けを「風俗壊乱罪」という名目で禁止しなければならないほどだった。
 デオンがフェンシングの名手であったことは、前にも述べたが、宮廷の集まりでフェンシングが話題になると、彼はぱっとスカートをまくって、構えの姿勢をして見せるのだった。スカートの下にはズボンをはいていた。女たちは逃げ出し、ルイ十五世はげらげら笑ったという。
 彼が一七八七年、ロンドンのカールトン・ハウスで、当時の有名な剣士サン・ジョルジュを相手に行った試合は有名である。デオンはそのとき六十歳近く、長いスカートに足がからまって苦戦したが、見事に若い相手を打ち負かし、やんやの喝采を浴びた。しかし一七九六年の試合では、左の胸に敵の突きを受け、乳のあたりが炎症ではれあがった。彼が女のような乳をしている、という噂が立ったのは、このためであろう。革命が起ると、老いても血の気の多い彼は、共和派の軍隊に参加することを希望したが、むろん許されなかった。
 結局、フェンシングの傷がもとで、彼は一八一〇年、ロンドンの裏町の陋屋で死んだ。享年八十三歳。遺体は解剖され、立ち会った医者の証明書によって、彼が正常な男子であることが明らかにされた。しかし別の医者の意見によると、彼の肉体は異常に丸味をおび、髯はほとんどなく、胸はどう見ても男の胸ではなく、手脚にも毛が生えていなかったそうである。


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Last-modified: 2006-08-19 (土) 10:56:19